追悼。ヤクルト監督時代の関根潤三氏と長嶋一茂氏を結んだ運命の糸…「みんなに愛され人を育てた」
大洋(現横浜DeNA)、ヤクルトで監督を務めた関根潤三氏が9日、都内の病院で老衰のため亡くなった。93歳だった。 関根氏は、「プロ野球ニュース」での温かみのある個性的な解説で知られたが、現役時代は、旧制日大三中(日大三高)ー法大から1950年に近鉄パールスに入団すると小気味のいい左腕エースとして開幕投手を2度任されて通算65勝を挙げた。1957年から外野手に転向。通算1137安打をマークする元祖二刀流プレーヤーだった。オールスターに投手と野手の両方で出場したのは大谷翔平(現エンゼルス)と関根氏の2人だけだ。 引退後は「育成」に定評のある指導者として名を馳せた。 1982年から3年指揮を執った大洋監督時代には、次の監督の近藤貞雄氏が「スーパーカートリオ」として売り出す、加藤博一、高木豊、屋鋪要の3人にチャンスを与え、1987年に監督就任したヤクルトでは、広沢克実や池山隆寛らを育て、次の野村克也監督時代に日本一となり花開くチームの土台を作った。 その関根氏のヤクルト監督時代にスカウト部長としてタッグを組んでいたのが片岡宏雄氏だ。 「武上四郎や野村克也とは、随分とやりあってきたが、最もスカウトの活動を理解してくれたのが関根さんだった。巨人時代に2軍監督の経験もあり、育てるということのわかった人だった。当時は、ヤクルトのドン底時代。ボブ・ホーナーら話題の外国人はいたが、基本的に戦力がなかったので結果が出ずに3年でクビになったが、池山、広沢らを三振しようが、何しようが、ノビノビと野球をさせて、我慢強く使ってくれた。日本人でチームの芯を作った。のちに野村が監督になって日本一になるが、その基礎を作ったのは、間違いなく関根さんだった」 関根氏は、ヤクルトの編成会議でスカウトがリストアップした候補選手に文句をつけたことは一度もなかった。 「スカウトが足を運んで見てきているんだから、その目を信じますよ」 片岡氏にそんな言葉をかけてくれたという。 関根監督ー片岡スカウトのコンビで球界の話題をかっさらったのが1987年のドラフトだ。ヤクルトは、この年、ユニホームを脱いで充電中だった“ミスター”長嶋茂雄氏の長男、一茂氏(現タレント)をドラフト1位で指名した。大洋とヤクルトの2球団が1位で入札。相馬社長がクジを引き当てたが、実は、一茂氏こそが、関根氏の意中の人物だった。