【手記より】帰省中に被災 大学教授は津波警報が響く中、高齢の父親と避難した「古いこの家倒壊するかも。父をかついで逃げるのは無理。一つの決断をする」石川県能登半島地震
正月の帰省中に能登半島地震で被災した人たち。いまは都心などに戻って仕事や日常をこなしながら、老いた親や地元の様子が片時も頭から離れない。そんな境遇下のひとりが、兵庫県の私立大学教授の高橋千枝子さん。震度6強を記録した七尾市の実家で、地震以降の出来事をメモした手記からは、発生直後の慌ただしさと短時間で判断が迫られた様子が浮かびあがります。(以下、手記より) 【画像を見る】七尾市の歴史ある街並みが被災 寺の鐘が落ち、店の1階部分が落ちた
――能登半島の実家で毎年恒例の加賀屋のおせち料理で新年を迎えました…、までは平和な正月でした。
【Day1(1月1日)】 弟家族を送り出して、洗い物をすませ、読書でもするかとお茶を淹れていた所、突然の地震。すぐに石油ストーブを消して、父が応接間へ行った所、さらに大きな地震、これまで経験したことがない大きな横揺れ。シャンデリアが落ちた瞬間「これはヤバい」。 ブロック塀や外壁が崩れ落ち、近所もガレージが崩れたり。 近所の人達と「とりあえず近くの小学校に避難しよう」 。私の実家は七尾市という港町。港から1キロも離れておらず、海抜4m。津波警報が鳴り響き、高い所に逃げないと。隣家のおばさん(同級生の母)が、私が帰省していることを知らず、一人暮らしの父を気遣って「一緒に車で高台に行きましょう」と声かけに来て下さる。こういう所は田舎の良さ。
どんどん近所の人が集まってくる、巫女さんも
急いでダウンを着て、リュックにペットボトル、パン、菓子を詰め込んで、父と近くの小学校に向かう。高齢の父は足が悪く杖をついているが、エレベーターは使えず階段で3階に。どんどん近所の人が集まってくる。近所の神社の巫女さんも。高齢者優先で暖房のきいた畳部屋に入らせてもらう。座布団と毛布、足の悪い父のために椅子を確保。この時点では水道も問題なく使えた。余震が断続的に続き、スマホで情報をチェックしてどんどん不安になる。 民生委員のおばさん(この方も同級生の母)が父を見つけて私が一緒にいることに安堵される。いつも感謝です。しばらくすると「水道が止まり、トイレの水が流せない」館内放送が入る。災害用トイレはすぐに在庫がなくなり、男性陣がプールからバケツで水を運びトイレに水を流すが、避難者は600人もいて追いつかない。 毛布・マットレス(アルミシート)・水・パン・ビスケット・乾燥おにぎりが都度到着して館内放送が入る。数も限られ、先着順なので急いで1階の詰所に取りに行かなければならない。もし私がいなくて、足が悪い父1人だったら取りに行けなかった。小学校から実家が近いので、余震にビビりつつ自宅に2回戻り、追加の毛布・水・食料、本、父の常備薬などを取りに行く。応接間を覗くと本棚が倒れ、割れたシャンデリアで足の踏み場なし。あと十秒遅かったら、父は本棚の下敷きだったかも。やはり実家も水が出ない。こういう時は泥棒が出ると聞くので、しっかり戸締りをして小学校に戻る。 近所で電気がついている家がチラホラ。避難所に行かない家も多い様子。 断続的な余震とこれからの不安で寝つけない。父は腰や足が痛いらしく辛そう。結局一睡もできなかった様子。私は20分ぐらい眠りに落ちた。