「今もやれることを一生懸命」音楽通じ3.11被災地応援 ── 山口洋・矢井田瞳。福島への想い
俺たちが信じてきたものを今鳴らさなくていつ鳴らすんだ
──そもそもの話ですが、MY LIFE IS MY MESSAGEはどういう思いで始められたのですか。 山口洋 これは僕が始めたことではなくて、フランスのChloe(クロエ)いう会社にそそのかされたというか、震災が起きて、“世の中を何とかしたいから山口洋の熱い力が必要だ”と言われて。明確に覚えているのは、そのとき「俺が本気になったらどうなるかわかってんのか?」って聞いたら、みんな「わかってる」って。それで、「わかった、俺もなんかやりたいから君たちと一緒にやろう」ってことで。 ヤイコちゃんが今いてくれるのは、始めるときに「女性がいた方が嬉しい」と言われて、iPhoneの連絡先をみたんだけど、俺は友達ほとんど男なんで、全然女性ミュージシャンの知り合いが出てこなくて、下のほうまでたどっていって「や」でようやく、あーー!って、それで矢井田さんに電話を。そのときヤイコちゃんも何かやりたいって思っていてくれて、最初に「続けることが大事だ」って言ったその気持ちをいまだにちゃんと持っていてくれている。1回だけ何かやるっていうのはできるけど、継続してやること、情熱を持ち続けることは一番むずかしい…… 矢井田瞳 うん、一番むずかしい…… 山口洋 そういう意味では(ヤイコちゃんには)すごく感謝しています。 ──なぜ、相馬だったのですか。 山口洋 阪神淡路大震災もたいへんな災害だったけど、エリアとしては東日本大震災の何十分の一くらい。東日本大震災はあまりにも範囲が広大すぎて、どうしていいのかわからないし、赤十字に丸投げするのも違うんじゃないかと思っていろいろ話しているうちに、福島県相馬市中村町1丁目1番地というようなすごくピンポイントなことを継続して「支援する」って言い方は嫌だけど、一緒に汗をかいて、どうやったら街を取り戻せるかを考えていくことは可能なんじゃないかと。そういうポイントをみんながたくさん作っていけばいいのではと、2011年の3月の終わりくらいに思って。 その頃、コンサートが中心になってたでしょう。僕の青森のコンサートも中止のはずだったんですが、震災のとき僕はアメリカにいて、主宰者に国際電話をしたら、「俺たちが信じてきたものを今鳴らさなくていつ鳴らすんだ」と。それで無料でやりました。これ、笑い話ですけど、そのときに「募金箱」という漢字を僕も主宰者も書けなくて(笑)ひらがなで「ぼきんばこ」と書いて置いた。そこにたくさんのお金が入っていたのを見ていたときに、たまたま津波にやられた相馬というところの友達から電話がかかってきたんです。そのときに、“あ、ピンポイントは相馬だな“って直感で。 矢井田瞳 洋さんが声をかけてくださったときは、思考回路とかフリーズしてしまっていた。何かしたいんだけど何していいかわからない。まだ娘もちっちゃくてTo Doはたくさんあって、でも、これまで世話していた感じとも何かが違うみたいな、1個ネジが外れてしまったような感じの日々を過ごしていたので、すごい嬉しかったんです。人とのつながりも。久しぶりだったんですよね…… 山口洋 うん。「そんなことやらない」って言われるんじゃないかって恐怖の方がでかかったから快諾してくれてよかったと。もともとそんなことをやるタイプの人間では僕もないし、ただやっぱりそれだけお互いにショックがでかかったんだと思う。