マルイ系ブランドが海外でじわり人気 アーカイヴブームで高値取引
DCブランドブームとファッションビル
ここで、1980年代の日本を席巻したDCブランドブームについて触れておきたい。その下地になったのは、1970年代の原宿だった。「マンションメーカー」と呼ばれるインディーズ的な新興ブランドが生まれ、若者達による新しいファッションが発信されるようになり、同時期に高田賢三や三宅一生が海外で活動を始めるなど、ファッションデザイナーが発信するファッションに対する注目度が高まっていった。 その勢いが爆発したのが1980年代である。パリに発表の場を移していたヨウジヤマモト、コム デ ギャルソンが「黒の衝撃」として脚光を浴びたのが1981年。その影響を受け、1982年にはカラス族というムーブメントが生まれた。そして、1983年頃にはDCブランドブームが到来した。 DCブランドブーム真っ只中に発売された「ホットドックプレス(Hot-Dog PRESS)」1986年5月10日号では、DCブランドが以下のように定義づけられている。 「Dはデザイナーズ、Cはキャラクターの意味。簡単に言えばデザイナーズ・ブランドとは、あるデザイナーが実際にデザインし、その人の名前がブランド名になっているモノ、もしくはオーナー・デザイナーが創る服のブランド(例えばコム・デ・ギャルソン)。それに対してキャラクター・ブランドとは、BIGIグループやFIVE FOXグループなどのブランドに代表されるモノで、特定のデザイナー名が前面に出てこないブランドのこと。」 当時誕生し、人気を集めた多くのDCブランドが店を構え、流行の発信地となっていたのがファッションビルである。その代表格が1973年にオープンした渋谷パルコ、1978年にオープンしたラフォーレ原宿、そして丸井である。 丸井は第二次世界大戦前の創業期から家具の月賦販売を行っていたが、1980年代には耐久消費財のニーズが衰退したため、当時伸びつつあったファッションに特化。店舗で即時発行ができる「赤いカード」を武器に、若者向けのキャッシングを拡大した。1987年には貸付残高が800億円を突破。その丸井の躍進を支えたのがDCブランドだった。すでに高度経済成長は終わっていたものの、アメリカに次ぐ世界2位の経済大国になっていた日本の経済は1980年代に入っても右肩上がりの安定成長が続いており、若者の消費意欲は、今とは比べ物にならないくらい旺盛だった。ファッションに対する熱量も非常に高く、丸井をはじめとしたファッションビルのセール開催時期は、DCブランドのアイテムを求める若者たちが長蛇の列をつくっていた。 だが、DCブランドブームは1980年代終盤には収束。その後の1990年代はデザイナーが発信するファッションよりも、「渋カジ」や「裏原系」などのストリートで生まれたファッションが主流となり、最先端ファッションの発信地としての丸井の存在感は薄れていった。