「芸能人古着ビジネス」はなぜ撤退するのか 被災5年後の石巻で見た支援活動の終わり方
早期退職制度を利用して会社を辞め、ボランティア活動の道へ
Windowsを販売する営業職だった岩元さんは社内制度を活用して静岡県で開催された世界技術五輪の通訳ボランティアに参加した。社会貢献活動への意欲が高まって社内異動を考えていたころ、リーマンショックが起きる。異動は一時凍結された。 早期退職制度を利用して2010年6月に会社を辞め、退職金を元手に通信制の大学で勉強した。青年海外協力隊に参加しようと準備をしていた矢先に東日本大震災が発生した。 東京の自宅で毛布にくるまってテレビを観ていた。暖房をつけるのは悪のように思えた。テレビCMが終わるたびに死者・行方不明者の数が増える。消防隊員や自衛隊員など友人たちが被災地へ出発していく様子をソーシャルメディアで見ながら自分に何ができるか考えた。 4月に被災地ボランティアの募集が出た。ピースボートに応募して7日間の予定で石巻を訪れた。延長の募集に手を上げ、ガレキ清掃、避難所担当のボランティアリーダーなどを経て、仮設きずな新聞に関わるようになる。以来5年間、石巻で活動を続けてきた。
被災地支援の潮目の変化
震災から5年のタイミングで、ピースボート災害ボランティアセンターは仮設きずな新聞の終刊を決めた。無料なので行政や民間から資金を得るのは必須だが、震災の助成金プログラムは減少。今後も人手や資金を割くのは難しいという判断だった。 岩元さんも潮目の変化を感じていた。雇用を生んだり交流人口を増やすといった新しい支援がメディアの注目を浴びる一方、被災者のための活動への関心は相対的に下がっていると思っていた。 私生活にも変化があった。2014年11月に東京の出版社に勤める夫と結婚し、その後は別居婚の状態。1ヶ月の4分の3を石巻、残りを東京で過ごす生活を続けてきた。終刊は残念だが、現状のまま活動を続けるのは困難に思えた。
活動を地元だけで続けられるようにするために
2015年12月、翌年3月での終刊をボランティアスタッフに告げた。 活動に負担を感じているのではないかと思い、「残念だけど仕方ないね」という反応を想像していた。しかし口々に挙がったのは「まだ続けたい」との声だった。配送メンバーは「配るのは大変だが、ありがとうと言われるのでやりがいがある」と話してくれた。 一緒にやる人に気持ちがあるなら手法を変えて続ける手もある。今年3月、岩元さんはピースボートを退職した。自分で任意団体「石巻復興きずな新聞舎」を立ち上げ、6月から「石巻復興きずな新聞」という新しい名前で月1回発行することに決めた。 自分の役割を徐々に石巻のスタッフへ渡す考えだ。岩元さん自身は住まいを石巻から東京へ移し、1ヶ月のうち1週間石巻で活動する。 夫は石巻まで来て配達に参加し、受け取る仮設住民の表情を見て理解を深めてくれた。役所の人からきずな新聞の趣旨に合いそうな助成金を教えられ、申請を勧めてもらうこともあった。新聞の存続を知った仮設住民たちは喜んでくれた。 「この人たちが新聞発行を続けたいって言ってくれたから。じゃあ、やるかって」。スタッフの女性たちと写っている写真を指さして、岩元さんは笑顔をみせた。 (この記事はジャーナリストキャンプ2016石巻の作品です。執筆:山田雅俊)
山田雅俊