32歳で介護離職した彼女がむしろ幸福そうな理由
■「今こそやるときじゃないか」と、音楽の仕事を始めた 家と職場の往復ばかりの日々に戻るイメージが湧かなかった宮本さんは、日本に残ることを決意。会社に退職の連絡をし、実家がある町の隣町に家を借りた。 無職になった宮本さんが、「これから日本で、どう生活していこう」と悩んでいた矢先、大学時代の先生から思わぬ連絡があった。「演奏の仕事の求人が、あなたの地元で出ているよ」。 聞けば、結婚式場で演奏する仕事だという。世の中にある演奏の仕事は限られており、ましてやそれが地方で得られるなんて、めったにない機会だ。宮本さんは、「音楽を仕事にするタイミングがきたということなのかな」と思った。
「演奏からは何年も離れていましたけど、『今こそやるときじゃないか。もう一度音楽にちゃんと取り組まないと、あとで後悔するぞ』っていう、自分の声が聞こえてきました」 34歳で音楽に関わる仕事を始めた宮本さんは、紆余曲折がありながらもそれから16年後まで、この仕事を続けることになる。 はじめの3年は社員として。しかし、もともと聴覚過敏で人がたくさんいる場所が苦手だった宮本さんは、毎朝大勢がいる場に行かなければならない環境にストレスを抱え、3年目に休職。うつ病と診断されたこともあってすこし休んだのち、パートとして仕事に復帰した。
その後13年ほど、演奏の仕事や、単発の講師などの仕事を続けてきた宮本さんに、ふたたび転機が訪れる。父親のがんが再発したのだ。 それまで実家では、父親が「多系統萎縮症」を発症した母親の介護をしていた。「多系統萎縮症」は、筋肉のふるえやこわばり、運動障害などの機能不全が起こる進行性の病気で、母親は日常生活のなかでケアが必要になっていた。 しかし、ちょうどコロナ禍で、もし施設に入れてしまうと感染リスクの懸念から家族でも会うことが難しくなってしまう。それに、両親ともに人生の最期までなるべく家で過ごしたいという希望があった。そこで、基本的には自宅で父親が介護し、週末には宮本さんが訪れてサポートする、という生活が続いていた。