ハンフリー・ボガートとは何者だったのか? ドキュメンタリー映画の監督が秘話を明かす【NY発コラム】
ニューヨークで注目されている映画とは? 現地在住のライター・細木信宏が、スタッフやキャストのインタビュー、イベント取材を通じて、日本未公開作品や良質な独立系映画を紹介していきます。 「マルタの鷹」「カサブランカ」「三つ数えろ」など数々の名作に出演してきたハンフリー・ボガート。ダンディで渋い演技を披露してきた名優についてのドキュメンタリー映画が「Bogart : Life Comes in Flashes」だ。 同作は、ボガートが関わった映画や舞台、彼が結婚した4人の女性(女優ローレン・バーコルを含む)や母との関係を中心にとらえつつ、世間には知られていない“素顔”を紐解いていく作品。今回、メガホンをとったキャスリン・ファーガソン監督へ単独インタビューを行った。 ファーガソン監督の前作は、歌手シネイド・オコナーを描いた「Nothing Compares」。この作品も素晴らしい仕上がりだった。では、なぜボガートを題材にしたプロジェクトに着手することになったのだろうか。 「『Nothing Compares』が完成した頃、ユニバーサルからこの企画について打診がありました。当初、ボガートのことは多少知っていましたが、決して何年もかけて研究してきた人物ではありませんでした。ただ、ハリウッドの黄金時代、神話や伝説のような古いハリウッドの奇妙さに、私はいつも夢中になっていました。ですから、彼らが私にこの話を持ちかけてきたとき、とても興味深いなと思ったんです」 ファーガソン監督が対峙することになったのは、20世紀における“男らしさの象徴”。どうやって映画を撮れば良いのか迷ったそうだ。 「これまでの自作のほとんどが女性についてのものであることを考えると、かなり飛躍した挑戦のように感じました。そこで、私と共同脚本家のエレノア・エンプテージは、この課題にしっかりと向き合い、現代的なレンズを通して『私たちが興味を持ち、観たいと思うような映画を作るにはどうしたらいいのか?』と考え始めました」 ファーガソン監督は、可能な限りのリサーチを試み、そこである視点に辿り着く。 「すぐに明らかになったのは、女性たちとの重要な関係性。彼女たちがどのような人物であったか、そして彼の人生とキャリアの軌跡をどのように形成してきたかということでした。そこから、この映画を作ろうと決めました。ボガートが亡くなってから70年経っていますが、今でも“映画界の巨人”として尊敬を集めているのはなぜなのか? 彼の遺したものが長年にわたって強く残っている理由は何なのか? それを考えることが、すべての出発点でした」 ボガートの母親・モードは有名なイラストレーターで、一家の稼ぎ頭だったが、息子と抱き合ったりハグしたりするタイプではなかった。後に、ボガートが“女性にモテる男”になったのは、母親との関係が大きく関わっていたのではないだろうか。 「非常によく観察されていますね。私たちは心理学者ではないので、それを確認することはできませんが、母親との関係は彼の人生において重要だったと思います。あなたの仰る通り、彼女はとても成功していて、稼ぎ頭でした。彼が生まれた頃には参政権運動を指導し、本来の母親としての方法で彼を育てることができなかったんです。そのため、特に彼の人生の初期の数十年間は、あるパターンがずっと続いていたように思えます。それはキャリアを第一に考える、非常に成功した女性を探し求めるというものです。そして、彼は彼女たちに自分を育ててもらう必要がありましたが、彼女たちにはそれができませんでした。だから結婚生活は破綻していったんです。彼は自分のことをちゃんと気にかけてくれて、自分の面倒を見てくれる人を求めていた。それなのに“成功した女性”にひかれずにはいられないというパターンが続いていました」 特にボガートの3番目の妻で、女優のメイヨ・メソットとの関係が強烈だそう。 「彼女もまた素晴らしい女優であり、その関係が悲劇的なのは、当時のハリウッドのシステムによる男女の扱われ方に大きく関係しているからなんです。30年代、彼女はフィルム・ノワールを代表するスターの一人であり、彼は出世街道を歩んでいました。ある意味、2人はエスカレーターで顔を合わせたようなもの。メイヨのエスカレーターは年齢や仕事面でも下っていて、ボガートのエスカレーターは上り続けていました。メイヨにとって、ボガートと出会って恋に落ち、仕事面でも対等な立場になってしまったのは、とても打ちのめされることだったに違いありません」 それには、ある理由があるそうだ。 「制度やヘイズ・コード(プロダクション・コード:米国で一般観客向けに製作される映画について、容認できる内容と容認できない内容を規定したもの)のせいで、ハリウッドにモラル・コードが導入されました。検閲や管理が行われるようになったため、メイヨが演じてきたような役はすべてキャンセルされるようになったんです。彼女のキャリアは基本的に終わりを告げられ、パートナー(ボガート)がスーパースターになるのを見るのは、かなり辛いことだったのではないでしょうか」 酒に酔うとメソットは人が変わった。後に明らかになる女優ローレン・バコールとの関係から、家に火をつけたり、ボカートをナイフで刺した事件も起こしている。 40代で映画界で成功する前、ボガートが舞台でかなりのキャリアを積んでいたことを、筆者は知らなかった。ボガートが成功するまで、これほど時間がかかった要因とは? 「おそらく、ボガートは1920年代には間違ったタイプの役にキャストされていたのだと思います。当時、何度も美少年役を演じても、彼はその役柄に見合うほどイケメンではなく、どこにも辿り着かなかった。映画の中で多くの人がそのことについてコメントしています。それに、彼は自分の足場を見つけられなかったと思います。それからギャングスター役を演じることで、非常にリッチなバックグラウンドを持つようになったと思うんです」 さらに、ジョン・ヒューストンの存在は大きかったそうだ。 「ヒューストン監督は、ボガートの才能を見抜いていました。ボガートは、その才能を最大限に生かすことができるクリエイティブな相手と出会ったんです。彼のキャリアにとって最も重要だったのは、間違いなく、この関係だったと思います。映画『化石の森』も明らかに大きな瞬間でした。しかし、それ以前は、この役との相性はあまり良くなかったと思います」 ハワード・ホークス監督は、ボガートと年の離れたローレン・バコールとの交際に難色を示していた。その理由は何だったのか? 「ホークスは、自分が発掘して映画に登場させた女性をかなりコントロールしていたと思います。私が(書物などで)読んでいた限りでは、そういうところがあったと思います。ローレンのスタイルや描き方も、彼(ホークス)のパートナーであるナンシー・キース(ホークスの妻)を参考にしていたと思います。一言で言えば、ハワード・ホークスは、ボガートとバコールの間に何かが起こっていることに、少し嫉妬していたのかもしれません。しかしもちろん、年齢差は大きく、非常に問題があったのも事実です。ボガートはそれまで(前妻のメイヨ・メソットと)悲劇的な結婚生活を送っていて、彼ら(バコールとボガート)のどちらかを気にかけていた人なら、その時点で離れろと言ったに違いないと思います。ただ、その関係で興味深いのは、年齢差があったにもかかわらず、そして誰もが心配していたにもかかわらず、彼らはとても愛し合っていました。12年間も強い関係を保っていたんだと思います」。 では、当時の赤狩りに対しての立ち位置はどうだったのだろうか。 「彼は検閲に反対でした。それは、最初の妻で女優のヘレン・メンケンがブロードウェイで検閲に遭い、レズビアンを題材にした『The Captive』が上演中止に追い込まれた頃までさかのぼります。そして、ハリウッドにおける共産主義者の赤狩りの頃になると、彼の大きな主張となったのは『映画において、このような検閲を行うことはできない』というものだったと思います。彼は、ハリウッドのスターたちを飛行機に乗せてワシントンに押しかけました。彼らが事態を好転させ、支持してくれると信じていました。彼がデイリー・ワーカー紙の表紙を飾ったのも、圧力が極限に達したときでした。それがボガートのキャラクターの最も驚くべき要素のひとつだと私は思います」 「映画の中でジョン・ヒューストンが言っているように、あれ(=ハリウッドのマッカーシズムに反対し、裁判を傍聴した際、その写真が雑誌ライフに掲載され、あらぬ疑いをかけられたこと)は彼が後悔していることなんです。当時の彼のプレッシャーがどれほどのものだったかを聞くのは興味深いですが、それはブラックリストや製作中止など、現代の私たちにも通じることです。彼が死の床で後悔しているとしたら、おそらくあらぬ疑いをかけられ、製作できなかった作品や出演できなかった作品があることだろうと私は感じています」 最後に、名作「カサブランカ」でのイングリッド・バーグマンとの関係性について聞いてみた。 「あの頃は、まだ前妻のメイヨ・メソットと結婚していた時期でしたから……正直言って、これ以上問題を起こさないようにねと言いたいほど(笑)。問題を避ける方法のひとつは、イングリッド・バーグマンのような美人とあまり仲良くしないことだったと思います。彼女にとっては、映画の共演者としてあまりに連絡が取れないことに戸惑ったに違いありません。当時のインタビューから察するに、ボカートは自分の中に閉じこもっていたのだろうと思います。しかし、彼が感情的な壁を作っているにもかかわらず、スクリーン上でのケミストリーがいまだに伝わってくるのは、ある意味“奇跡”だと思います」