「アイヌ」として生きていく。90歳の作家・活動家、宇梶静江さんにインタビュー
虐げられてきたアイヌ民族の歴史
日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であるアイヌの人々は、屈辱的な差別を受け、虐げられてきた歴史がある。明治維新後の1869年、政府は北海道に開拓使を設置した。それまで独自の文化を持って暮らしてきたアイヌ民族に対して、「旧土人」という差別的呼称を使い、和人との同化政策を進めていった。アイヌの人々は日本人とされたが、当時の戸籍には身分表記欄があり、「旧土人」と記載された。もともと狩猟や漁猟を生業としてきた人々に、政府は農業を奨励し、住んでいた土地を没収し、日本語を強要した。文字を持たないアイヌの人々は、口承で歴史や物語を伝えてきたが、アイヌ語が禁止されたことで独自の文化が急速に失われていった。 1899年に「北海道旧土人保護法」が制定された。アイヌを「保護」するという名目で、希望者に農地が与えられたが、実際には和人を対象とした殖民地選定や区画事業が優先されたため、アイヌの人々には農業に不向きな粗末な土地ばかりがあてがわれた。アイヌの人々の共有財産は国のものとなり、居場所はどんどんなくなっていった。この法律は1997年に廃止されるまで、約100年もの間アイヌの人々を苦しめることになった。 「アイヌは、旧土人保護法によって、生活の基盤を根こそぎ略奪され、禁止されました。鮭も、熊も、鹿も、何もかも獲ることができなくなり、海藻や山菜まで制限されて、アイヌとして生きられないような状況に追い込まれたんです。アイヌの人々の生活や文化、言葉、誇り、すべてが否定され、奪われました。その屈辱は、はかり知れません。アイヌの歴史は、何も是正されないまま今に至っています」
内なるアイヌと向き合う決意、そして挫折
親の仕事を手伝い、満足に小学校にも通えなかったが、静江さんの中で勉強したいという思いが消えることはなかった。町役場のゴミ捨て場で拾った、漢字にルビが振られた哲学書をいつもそばに置き、両親の手伝いの合間に読んでいた。20歳のとき、「嫁にいきなさい」という親をなんとか説得し、札幌の中学に入学する。卒業後に就職を試みるも、札幌ではアイヌであることを理由に雇ってもらえなかった。東京の大学に進学する友人の誘いを受け、23歳で上京。早稲田の喫茶店で働きながら、都内の定時制高校に通った。店に来る学生たちが話題にする、世界文学の名作を聞き覚えては古本屋で購入し、仕事終わりに夢中で読んだ。 子ども時代のいじめのトラウマもあり、誰とも結婚しないと思っていたが、縁あって27歳のときに結婚し、二児の母となった。当時住んでいた公団住宅で知り合った、詩人会議(1962年に発足した詩人集団)のメンバーの女性に勧められ、浦川恵麻というペンネームで詩を書き始めた。すると自身の作品が、詩人会議を立ち上げた壺井繁治さんの目にとまり、月刊詩誌『詩人会議』に掲載される。「彗星のように現れた詩人」と絶賛され、その後もいくつかの詩を発表した。だが、アイヌのことはどうしても書けなかった。詩を書けば書くほど、内なるアイヌと向き合えない葛藤が生まれた。自分の心の中にあるアイヌをどう表現すればいいかわからず、悶々とした。 「上京してからは、自分の出自を隠すことこそしなかったけれど、自らアイヌであることを明らかにしようともしませんでした。これまで受けてきた差別を脱ぎ捨てるような気持ちで東京に来て、平穏な日々を送っていたのに、アイヌのことを忘れられなかった。30代になって、アイヌのために活動しなければと思ったときは、詫びるような気持ちでした」 アイヌとして胸を張って生きていこう。アイヌ同士が支え合える場を作ろう。そう決意した静江さんは、1972年2月8日、朝日新聞の「ひととき」という女性投稿欄に記事を投稿し、「ウタリ(アイヌの同胞)たちよ、手をつなごう。私たちはあなたとの語り合いを望みます。どうぞご連絡ください」と呼びかけた。38歳のときだった。その翌年に「東京ウタリ会」を設立し、東京在住の同胞たちと積極的に交流した。 アイヌとしての自覚を促す活動を始めたが、静江さんの活動に理解を示す同胞は少なかった。「自分たちはアイヌとして生きたいとは思っていない。せっかく東京に出てきたのだから、放っておいてほしい」といわれた。静江さんの思い切った行動に、「寝た子を起こすようなことをしてくれた」と迷惑がる人も少なくなかった。 「当時は背中を叩かれるような思いで活動を始めたのですが、アイヌはまとまれませんでした。長年差別されてきたことで、アイヌであることに誇りを持てなくなってしまったんです。家族にさえも、自分がアイヌであることを隠し続けている人もいました。今でこそ、同胞に会うとよろこんでもらえますが、当時は同胞だとわかっても目をそらされた。私のことを慕ってくれていた甥っ子たちも、私がアイヌ問題をやると、途端に敬遠するようになりました。同胞どうし認め合うこともできなくなっていた。それが、長年のアイヌ差別がもたらした実態です」