日本人審判が確立した“独自色” 担当682試合…町田ロングスロー対応にも見えた信念【コラム】
特徴となった“動作の大きさ”、時代に沿ったレフェリングに適応
長躯と長い手足を生かした動作の大きさも、判定の分かりやすさを増幅していたと言える。そのため外国人選手にも分かりやすかったはずだ。そのことも2010年南アフリカワールドカップ(W杯)の準々決勝、オランダ対ブラジルや、2014年ブラジルW杯の開幕戦、ブラジル対クロアチアに抜擢される要因になったことだろう。 もちろんそんな重要な試合を任せられるだけの技術を持っていたことも大きい。Jリーグでも、どうやって見えたのかと思う難しい場面で正しい判断を下していた。VAR(ビデオ・アシスタント・レフェリー)がない時代に、カウンターで抜け出したFWのゴールが取り消されたことがある。後ろから追いかけていたはずの西村主審は、バウンドしたボールが手に当たっていたのを見ていたのだ。 レフェリーと報道陣の懇親会が開催されたときに「どうやって見えたのか」と聞くと、すぐにその場面を再現して説明してくれた。記憶力のよさもさることながら、そういう場面での注意すべき点が整理されていて、肝となるプレーが見えるようにうまく角度を付けるためにどう走るかという点を教えてもらったことがある。 そして西村主審で特に記しておかなければならないのは、ちょうどレフェリーの「立場」が変わる時代にいたことだ。かつてレフェリーには「威厳を保つ」ことを優先させ、ややもすると高圧的に選手や監督に接する時代があった。 それがしっかりとコミュニケーションを取り、お互いを仲間として認識して判定を下すという流れになった。西村主審はその新しい流れにすぐ対応し、対立の構図からではなくゲームのマネジメントをベースに自分の世界を築き上げた。
西村主審がメッセージ「若い次世代のレフェリーたちは審判活動に夢中になってもらいたい」
独自色を出せたのは、審判を目指したきっかけが「世界大会に出たい」「レベルの高い試合で吹きたい」という動機ではなかったことも良かったのだろう。少年サッカークラブのコーチをしていたとき、不満の残る判定で負けたことがあって、そこから自分で笛を吹こうと思ったからだった。 だから西村主審にとってW杯の試合であろうがグラスルーツのゲームであろうが、位置づけは同じだった。AFC(アジアサッカー協会)やFIFA(国際サッカー連盟)にどう思われるかということを気にしなかったため、自分の道を信じるままに歩み続けられたのだろう。 西村主審の次のステージは「審判マネジャー」としてどんな後輩を育てていくかということになる。Jリーグで笛を吹いた25年間の間に682試合を担当した名レフェリーがどんな次世代を育てるのか。会見を西村主審はこんなコメントで締めくくった。 「審判活動を通じて自分の人生を豊かにすることができました。みなさんもいろんな決断をされていると思うんですが、レフェリーの決断の仕方と、人生においていろんな決断をしていく仕方は結構リンクしていて、考え方は共有できることがいっぱいあると思っているんです。ですので、審判活動を通じて社会に貢献したいと思います」 「審判活動を通じ人として成長していくのでやってほしいな、続けてほしいな。その中から自分の人生を本当に豊かなものにしてほしい。若い次世代のレフェリーたちは審判活動に夢中になってもらいたいと思っています」 審判という枠組みだけに留まらず大きな世界を見ていたのも西村主審らしい。その今後に期待せずにはいられない。 [著者プロフィール] 森雅史(もり・まさふみ)/佐賀県出身。週刊専門誌を皮切りにサッカーを専門分野として数多くの雑誌・書籍に携わる。ロングスパンの丁寧な取材とインタビューを得意とし、取材対象も選手やチームスタッフにとどまらず幅広くカバー。2009年に本格的に独立し、11年には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌で開催された日本代表戦を取材した。「日本蹴球合同会社」の代表を務め、「みんなのごはん」「J論プレミアム」などで連載中。
森雅史 / Masafumi Mori