アンチ巨人を生んだ江川事件後に導入された逆指名やFA制度、結局「巨人一強」「セ・リーグ主導」を補強することに
■ 江川事件以後も揺るがなかったジャイアンツ人気 1978年の「江川事件」は、ドラフト制度そのものの存在意義を揺るがす大事件だった。この事件をきっかけに「巨人ファンをやめた」という人も少なからずいた。しかし「巨人一強」体制は微動だにしなかった。なぜなら、巨人戦は1980年代に入っても、日本のテレビ界で屈指の「視聴率が取れるコンテンツ」だったからだ。 【写真】1966年10月、フジテレビ「スター千一夜」に出演したジャイアンツの選手たち。左から柴田勲、城之内邦雄、王貞治。右は司会の栗原玲児。巨人のレギュラーということはセレブの仲間入りをしたのも同然だった 巨人人気はそれほどすごかった。たとえば1959年から81年までフジテレビで放送された「スター千一夜」のゲストの顔触れを見ればそれがよくわかる。折々の旬のスターが登場し司会者のインタビューを受けるこの人気番組に、王貞治は72回登場した。これは吉永小百合の90回に続いて2位。それだけでなく長嶋茂雄、堀内恒夫や柴田勲、さらには若手の河埜和正なども出場回数のランキングに名を連ねていた。 巨人は1965年から73年まで、空前のV9(リーグ、日本シリーズ9連覇)を達成し、その度に選手が勢ぞろいして「スター千一夜」に出演したが、それ以外にも巨人選手がゲストに招かれることが多かったのだ。要するに、巨人のレギュラー選手になることは「セレブ芸能人」の仲間入りをすることでもあったのだ。 江川事件以降、プロ野球チームは「メディア対策」を強化した。球団のネガティブな情報を記事にされるのを防ぐために、特に新聞・テレビの運動記者クラブに所属するメディアに対して、通年パスを与えたり優先的に情報を提供したりするなどして距離感を詰めた。さらに新聞記者上がりを球団広報に採用し、「身内意識」の醸成に励んだ。 1972~73年、西鉄ライオンズなどで起こった「黒い霧事件(八百長、野球とばく事件)」は、読売新聞・報知新聞のスクープだったが、80年代以降、新聞、テレビがプロ野球のスキャンダルをスクープすることはほとんどなくなった。
そうした懐柔策の外側にいた雑誌メディアには、ときに強硬な態度に出た。1982年、プロ野球について批評していた作家の玉木正之氏が「月刊現代」に書いた記事をめぐって巨人軍広報は出入り禁止を申し渡したりした。 球団側の「出入り禁止」をチラつかせる締め付けによって、かつては批評精神にあふれていたスポーツメディアは萎縮し、球団の意に沿った情報を発信するだけの「業界紙」になってしまった。 ■ ドラフト外での「囲い込み」が問題化 スポーツメディアが健全な批評精神を失ったことによって、球団サイドはプロ野球界を自分たちの経営に都合のいい形に変えやすくなったと言える。そして90年代に入ると、ドラフト制度の「改革」が始まった。 ドラフト制度は1965年から導入されたが、それ以降も「ドラフト以外」での選手獲得は認められていた。 1978年にライオンズを買収した西武は、ドラフト外で松沼博久、松沼雅之、小野和幸、秋山幸二などの有力選手を獲得した。これらは独自のネットワークで発掘した有望選手に、他球団のスカウトには「プロには行かない」と言わせたうえで、ドラフト会議後に獲得するという、いわゆる「囲い込み」の成果だった。