既存の宗教が滅んだ後に、必要なのは新しい宗教か? それとも……?
浄土真宗の僧侶にして宗教学者の釈徹宗氏。批評家・随筆家にしてキリスト者の若松英輔氏。「信仰」に造詣の深い当代きっての論客二人が、「宗教の本質」について書簡を交わす本連載。今回のテーマは「宗教共同体」です。(本記事は、「群像」2024年10月号にも掲載されています) 【写真】宗教共同体は、平和に貢献する一方で、争いも引き起こす。その自覚が必要だ!
「共同体」と「集合体」
お手紙ありがとうございます。本当に暑くなりました。東京で暮らしつつ、高層ビルが林立しているのを見ておりますと、暑さは気候だけに由来するのではなく、冷房機をはじめ、人間が作り出している熱にもよるのだと改めて思い至ります。 文明はさまざまなものをもたらしました。そのなかには耐え難い暑さもあり、これを作り出しているという人間の自覚が十分にない以上、過酷さはこれからも増していくのではないかと考えたりも致します。 さて、今回は「共同体」という主題をいただきました。おっしゃるように宗教とは何か、あるいは宗教のありようを考えていこうとするとき、避けて通ることのできない、今日的問題です。 「共同体」という言葉は、通常コミュニティcommunityの訳語として用いられています。そのためでもあると思いますが、母語の次元に十分浸透していないようにも感じます。つまり、それは一つの概念であって、まだ、経験に裏打ちされた実態になっていないのでないか、と思われます。こういった方がよいかもしれません。共同体をめぐる論議は、しばしば理念的になって、実在から遊離したものになる傾向もある。 母語として生きていることは重要です。母語になるとは、その問題を知の次元ではなく、さらに深い場所で考えることができるのを意味します。 この国では昭和の時代、さまざまな思想的共同体が生まれました。そこでは声高に理想が語られるのですが、なかなか日常に根差すことはありませんでした。つまり、共同体とは何かを問う前に、その本質を生きてみる前に、団体を作ろうとしたのかもしれません。 いただいたお便りの最後にマルティン・ブーバーにおける「共同体」と「集合体」にふれてくださいました。改めて論議を深めるためにブーバーの言葉を引用しておきたいと思います。 ブーバーは「すべてが集団化され、混り合わされて行進している集合体の中にあっては、自己が努力しようと考える共同体とはそもそも何か、だれが予感できよう。各人は自己が思っているとは正反対のものに服するのである」と集合体に潜む危険に注意を促し、次のように続けています。 集合体は結合ではない。ひとからげに束ねたものにすぎない。すなわち、束ねられた個々の人間が並び立ち、共通の装備をし共通の武装をし、人間をつぎつぎとただ大量に行進にかり立てるだけである。しかし、共同体とは、つまり、生成しつつある共同体(われわれは今までのところただこのような共同体しか知らない)とは、もはや多数の人格の並列的存在ではなく、相互に支え合う存在の共同体である。(「対話」『我と汝・対話』植田重雄訳) それぞれの人が、自他の固有性と不可分なつながりを認識しながら存在するところに生まれるのが共同体であり、固有性を見失い、集まってはいるがつながりを見失っているのが集合体だといえるかもしれません。 こうもいえるでしょうか。共同体は、自利利他の秩序によって貫かれ、お書き下さったように集合体は、利己と差別、そして暴力の温床にすらなる。 この国だけでなく、二十世紀は、共同体らしき集合体がいくつも生まれた時代でした。全体主義という異様な集合体を生む思想は、一個の国家を飲み込んだことすらありました。この論考が公刊されたのは一九三二年、ナチスがドイツで政権を取る前年です。ブーバーは迫りくる破壊と分断の波を鋭敏に感じ取っているのです。そして、集合体はしばしば、大いなるものと人間に内在する聖性を見失った、疑似宗教の姿を取ることもブーバーはしっかりと認識しています。 共同体と自分との関係を見ると、多層的にそれと関係しているのが分かります。 国、自治体といった公的共同体、あるいは会社という社会的共同体、そして私の場合、カトリックという信仰共同体、あるいは家族という血縁による共同体です。こうして挙げていけばさらに細分化できるでしょうが、今は、それが多様な姿をし、幾重にも層をなしていることが分かれば十分です。