既存の宗教が滅んだ後に、必要なのは新しい宗教か? それとも……?
「宗教二世」にないのは自由意志
どの共同体がもっとも強く関係しているのか。それも一概にはいえません。また、お手紙でふれて下さったようにカルトはしばしば、他の共同体との分断を求めてくる。「宗教二世」に封じられているのは自由なのです。 共同体の成立において問い直されるべきは自由と強制という問題です。共同体が真にその役割を果たすためにはそこに連なる人の自由がなくてはなりません。 ここでいう自由とは、まさに自由意志なのですが、ここでは自由という日本語に含意される意味に寄り添いながら考えを深めてみたいと思います。「自由」も幕末に生まれた訳語ですが、「共同体」に比べるとずっと私たちの深いところに根付いています。それは何かからの自由でもなく、権利としての自由でもない。自らに由るという精神の態度としての自由なのです。 自らに由りながら意志する。誰かに勧められたからでもなく、誰かの真似をしているのでもない。あわててつかみ取ったのでもない。存在の深部において生まれた決意によってそこに立つ。あるいは退く。それが自由という状態なのだと思います。 さまざまな宗教で修行に生きる人たちがいます。そうした人たちは、生活的に見れば不自由きわまりない場所で生きることを自由意志で選び取っているのです。疑似宗教は、まず自由意志を封じ込め、選択する能力を奪います。それは拘束によってであったり、恐怖によってであったりもする。そして、そこは搾取の温床にすらなっていく。
日本の核にある「中空」
別の角度から考えてみることもできるかもしれません。共同体、集合体の中心にはそれぞれ何があるのか、という問題です。 深層心理学者の河合隼雄に『中空構造日本の深層』という著作があります。日本文化と日本人の精神性の根柢を浮かび上がらせた名著ですが、そこで河合は、日本という共同体の核にあるのは、何か実体のあるものではなく、「中空」だというのです。彼はそれを臨床家としての経験、そして心理学の研究者としての探究、そして、日本の神話の読み解きによって指摘しています。 「中空」は、具体性を持ちません。しかし、ある力と働きを持つ。その不可視な実在がそこに連なる人たちによって、畏怖の念と高次な緊張感によって支えられているうちはよいのですが、それがいたずらに具象化されたり、低次に象徴化されることで制御できないほどに暴走することがある。現代でも、そうした歴史を私たちはさまざまなところで目撃したように思うのです。 すぐに想起されるのは水俣病事件です。石牟礼道子さんの『苦海浄土』第二部「神々の村」の第三章に次のような言葉が記されています。 「東京にゆけば、国の在るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ。あれが国ならば国ちゅうもんは、おとろしか。(中略)むごかもんばい。見殺しにするつもりかも知れん。おとろしかところじゃったばい、国ちゅうところは。どこに行けば、俺家の国のあるじゃろか」 これが行先を見失った共同体の末路です。外見的には団体らしきものがあるが、内実はないのです。このとき中心にあったのは、人間の強欲です。そして、等しさを忘れた差別です。 共同体が実現するためには、その核心に等しさがなくてはなりません。人を率いるという役割を担う人はいる。しかし、率いる人と率いられる人のあいだに身分の上下、立場の優劣はないのです。むしろ、こういわねばならないのかもしれません。共同体を持続的に存続させるためには、基盤となる等しさの認識が浸透していなくてはならない。鈴木大拙が『日本的霊性』でこう書いています。 大地と共にその恵みを受ける時に、天日はこの身、この一個の人間の外に出て、その愛の平等性を肯定する。本当の愛は、個人的なるものの奥に、我も人もというところがなくてはいけない。ここに宗教がある 仏教者である大拙が、ここで「愛」という言葉を用いているのにも注目してよいと思います。この本の題名にあるように霊性的地平において生き、思索し、言葉を世に送り出しているのが分かります。 陽のひかりの下にあるときのような等しさがあるところに宗教が生まれる。むしろ、それが見失われたところには宗教とは似て非なるものが生まれ得る、というのです。 等しさがないところに等しさをよみがえらせること、それも宗教者、信仰者の役割なのではないでしょうか。これまで宗教もまた、優劣の世界を作り上げてきたことは否定できません。自らの優位を説くなかで、人間の根源的な等しさを見過ごしてきたのです。