グループA スカイラインGTS-R【2】R31の市販開始後もやむなく旧型のR30を使い続けていた|国内モータースポーツの隆盛 第18回
グループA規定のレースで使えるパーツは、メーカーが申請し公認を受けたものだけに限られ、プライベーターが独自に作り上げたパーツの使用や改造は完全に封止されていた。それだけに、自動車メーカーの対応姿勢によってレース車両の能力が左右される特徴を備えていた。 >> 【画像13枚】目には目を、エボにはエボを! 本格反抗を開始したハコの伝説。グループAスカイラインGTS-R さて、85年にJTCシリーズが始まった時点で、明らかにメーカー直系と思わせるエントラントは皆無だった。最初にメーカーの存在を感じさせたのが西日本戦でデビューしたE-ATシビックだった。中嶋悟/中子修という破格の組み合わせで、デビュー2戦目の鈴鹿戦では、最小排気量クラスながら総合優勝の快挙を演じた車両だ。 日産勢は、スカイラインRSターボ(DR30)を使ったニスモ経由のプライベーター参戦が先行し、メーカー直系と見なせるニスモカーの参戦は、最終戦のインターTECまで待たなければならなかったが、こちらも長谷見昌弘/鈴木亜久里とメーカーの存在を感じさせるドライバー陣容だった。 また、歴史的にサーキットレースには消極的だった三菱が、グループA規定となったことでスタリオンを準備。85年のインターTECからメーカー体制での参戦を開始。ちなみにトヨタ勢は、トムス、トランピオチームを軸にAE86レビン/トレノで1600cc以下の最小排気量クラスに活躍の場を求めていた。 [nextpage title=“次ページへ続く 。1987年のインターTECに遠征してきたフォード・ワークスのシエラRS500やシュニッツァーのBMW M3”] しかし、見た目には何の変哲もない2ドアセダンのボルボが、性能自慢、スペック自慢の日本車をことごとく蹴散らしてしまったのだから、与えた衝撃は大きかった。文字通り「黒船の来襲」となり、86年シーズン以降の展開に疑問符がついてしまった。 その86年は、スカイラインRSターボの和田孝夫/鈴木亜久里組がタイトルを手にしたものの、強敵BMW635の取りこぼしに乗じたかたちで、決して力で相手をねじ伏せて、というレース内容ではなかった。 また、グループAの大一番インターTECでは、再び遠来のボルボに大敗。日本車勢としてスカイラインRSターボの長谷見/舘善泰組(ハセミモータースポーツ)が3位、和田/亜久里組(ニスモ)が4位と健闘したが、その差は共に4周遅れ。着順より遅れの差が懸念材料となるレースだった。 折しも、この光景をサーキットで目の当たりにしたのが伊藤修令以下スカイラインの開発陣だった。市販車はすでにR31の時代だったが、R31にはレースで戦える資質、準備がなく、やむなく旧型のR30を使い続けていたというのが当時の実情だった。 しかし、この敗戦が直因となり、87年にマイナーチェンジが予定されるR31に、グループA対策のモデルが追加されることになった。
Nosweb 編集部
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