AIと人間を隔てるのは「身体性」...コンサートホールで体を震わせることこそ「人間的」だと言える理由
<「内面の自由」が保証されて、ネットの世界で楽しければそれでいい、と考える人が増える中で論壇誌が果たすべき役割とは──>【片山杜秀 + 三浦雅士 + 田所昌幸】
『アステイオン』創刊と同じ年に誕生したサントリーホール。1986年とはどのような時代背景だったのか。音楽評論家の片山杜秀・慶應義塾大学教授と舞踊研究者で文芸評論家の三浦雅士氏にアステイオン編集委員長の田所昌幸・国際大学特任教授が聞く。『アステイオン』100号より「1986年から振り返る──サントリーホールと『アステイオン』の時代」を転載。 【写真】2004年にバイオ技術によってサントリーが開発した「青いバラ」。サントリーホールの小ホールは「ブルーローズ」と名付けられている ◇ ◇ ◇ ■「個人の自由」と「"内面"の自由」■ ■田所 「失われた何十年」のその次が立派な良い時代になるかどうかは分かりませんが、歴史がもう1つ展開し始めたというのが、われわれ国際政治学者の一般的な認識です。 問題は中国です。少し前に『幸福な監視国家・中国』(NHK出版)という面白い本がありました。中国論のようでありつつも、人類全体が直面している問題を提起しています。 中国は、極めて抑圧的だけれども、デジタル全体主義を過去2、30年間、少なくとも現段階まではものすごくうまくやってしまった、と。私はいずれ破綻するとは思うのですが、あのような形で世界を合理化していく共産党の統治が成功するとオルタナティブな世界像が今の時代に再びワーッと出てきてしまう。 中国についてもう1つ言うと、今私が教鞭を執っている大学に来ている途上国からの学生は、中国が好きです。「中国みたいになれたらいい」と言います。 「どうやって自国が豊かになるか」「どうやって自国の軍隊をもっと強くするか」ということが何より大事なら、「欧米のように "民主主義だ、人権だ" とがたがたうるさいことを言うことなく、ポンといろいろなものをつくってくれて、それでGDPが増えるならいい」というのが、グローバルサウスのエリートたちの世界観です。 ■三浦 ある種、階級社会を自明とするような世界観ですね。 ■田所 彼らのルサンチマンは判る部分もありますが、フランシス・フクヤマではないけれど、イデオロギーが終焉してしまって、保守二党論が語られる一方で、共産党一党独裁の下で豊かさが実現された時代に、孤独な個人はどうやっていくのかという、別の課題が、今の中国の姿を見ていると強く問われているように、私には思えますね。 ■片山 米ソの冷戦時代とは違う選択の時代に「人間はこれからどうなっていくのか」というとき、文明観、人間観も含めて人間中心主義で考え、最大限の自由を尊重するという路線と、自由を我慢できる中での自己実現をよしとする路線とがありますね。 こういう路線を改めて見直すと、「内なる自由」を保てるなら、余計なことは言わず捕まらないようにすればいいじゃないか、捕まるやつはバカだ、みたいなことになって、中国的なものを許容することになる。なぜ香港でわざわざ面倒な運動をして亡命するようなことをするのだ。バカじゃないのかと。 新しい秩序優位における「内面の自由」をよしとする考えですが、「内面が自由だから何をしてもいい、政治的に社会的に発言してもいい」というかたちの自由ではなく、「内面の精神生活だけが自由だ」と翻訳するわけです。 「内も外も自由だ、政治も文化も経済活動も束縛なしだ」という自由主義と資本主義の組み合わせの中で、実際に経済的パイがどんどん増えて、みんなにお金が回れば、それは幸福でしょう。 でも福祉はもたない、税の再分配はうまくいかない、貧富の差が開くということでは、自由主義陣営の自由は噓っぽくなってくる。自由を我慢しても我慢しなくても結果として大差ないじゃないかと。経済的自由がなければ政治的にも自由がなくては回らず、複数政党制になるはずだという当たり前が通らない。 ■拠り所としての「身体性の擁護」■ ■田所 中国が問題だと言いましたが、本当に重大な問題は中国以上にアメリカ、そしてヨーロッパかもしれません。いわゆる合理主義的なリベラルモデルが内在的な問題を抱えていて、ガバナンス上の非常に難しい問題が起こっているということです。 一番本質的な問題はどんな人生、どんな社会を望み、どんな生き方をしたいのかということで、それを扱うのが芸術であり、なかでも始原的なのが舞踊だ。そこを考えなければいけないという最初の三浦さんのお話につなげて考えてみたいと思います。 人間が人間であるのは、当たり前だけれど身体を持っているということに依拠します。 AIと違うのは身体を持っていて、いずれは皆平等に老いて死ぬし、物を食べたらおいしくて、音楽を聴いて一期一会の経験に感動する。やっぱりコンサートホールに来て聴かないとダメよね、というのはそれですよね。 そこにチャレンジするのが、人間の意識だけを切り離してサイバー空間で完結できてしまう、という発想の人たちです。そして、それを政治の世界まで展開すると、サイバーの世界で全部けりをつけてしまおうという中国的な発想になると思います。 ■片山 そこは「身体性の擁護」という話に着地するのかもしれませんが、本当に難しい。中国は、政党がたくさんあり、誰もが個人的な意見を持ち、議論も経済活動も自由という時代の経験をすっ飛ばして今に至っています。 辛亥革命後は混乱状態が続き、日本との戦争を挟んで国共内戦があり、国民党を追い出して中華人民共和国になったわけで、中国の歴史には西洋型近代も西洋型文明開化も日本ほど内面化しようとする時代は無かった。 ロシアも同じで、国民が自由に考え、行動し、たくさんの政党同士が議論をするという時代を全く経験していないまま、中華人民共和国も今のロシアも21世紀に至っている。だからエートスとしての個人という価値観は、あれだけ巨大なスラブ世界にも中国大陸にもない。 そこには今まで議論されているような、自由を我慢できるはずがないモデルで我慢してしまう人たちが相当数いる。そのくらい厳しめに見ておいてもいいと思っています。 ■田所 このたび、本号の特集で若い方々に創刊時の『アステイオン』を読んでレビューを書いてもらっています。私を指導してくださった高坂正堯先生は「粗野な正義観」が闊歩する嫌な時代になったと書いています。「アメリカがあちこちに介入して世界中をアメリカ流の自由民主主義にしようとしているけれど、やめたほうがいい」と。 ■三浦 なるほど、86年の段階での話ですね。 ■田所 はい。高坂先生が言及しているのはジョン・スチュアート・ミルの『内政干渉について(The question of intervention)』です。外から介入しても自由は実現できない、介入者が帰ったらまた元どおりになるというわけです。 40年近くたって、結局そうだったと思っている人が多いのではないでしょうかね。ある意味で世界は昔見たような国家の合従連衡(がっしょうれんこう)の時代に逆戻り気味なのですが、メディアの世界はすっかり変わってしまっています。 そこで、片山さんが先ほどおっしゃった「身体性の擁護」について伺います。「ネットの世界、ユーチューブでいろいろできるのだし、楽しかったらそれでいい」という人たちに対して「身体性が擁護されないといけない」と訴えるとき、どういう論理があり得るのでしょうか。 ■片山 今「ロシアや中国は近代を知らない」みたいな話をしながら、チェーホフの『桜の園』の老僕フィールスの台詞を思い出していました。 フィールスが「やっぱりあのときに世界が崩壊したんだ。あの前がよかったんだ」と言って、「それはいつの話だ」と聞くと「農奴解放の日だ」と言うんです。「あのまま農奴として生きていさえすれば」と。彼の身体はまさに農奴的身体なわけです。 身体は一人ひとり違う。声も違うし、テンポも違う。そういうものを生き生きとさせることに人生最大の目標があると考えれば、電脳空間のある類型の中で非常に情報量が少ないような音の悪い音楽を聴いて、「これが音楽だ」と思うのではなくて、たとえばサントリーホールに来て体を震わせる。好きな演奏家がいて好きな曲があって、一人ひとり好きなものが違うのは当たり前だというようなことから、個人性というものを常に認識することはできると思います。 三浦さんがおっしゃるように、舞踊が一番の根本。そこには体の動きがある。そこからスポーツが出てきたり、演劇が出てきたりする。また、詩の朗誦でも、歌うことでも、体が動いていて個人性が出てくる。そういうものを尊重することが「人間性の擁護」=「身体性の擁護」なのだと言いたい。 でも、身体性というものは同時に、集団性として、あるいは動物的に一緒になって動くのがいいというように働く場合もある。それはつまり、「私」が消滅する身体性です。事実、それでいいと思える人間はいるだろうし、日本人にもいるかもしれない。 それを文明の問題として考えたときに、受動的な身体であること、単にワン・オブ・ゼムになることの快感のようなものを感じたりすることに甘んじて、ある縄張りさえ維持されていれば拷問されるよりはいいという人間がいる世界がある。 まさにジョージ・オーウェルの『動物農場』に描かれる類型的な動物的なもの、家畜的身体で満足できる人間がいる世界がある。その現実の前では、「身体性を擁護する」と言ってもわからない人がいます。そういう人は勝手にやってくれという話になると、時代が戻ってしまって動物と人間のすみ分けが希薄になるようにも思います。 ■田所 「受動的な身体でいいや」という人も一定数いる現実があるわけですね。 ■片山 どういうふうに自分の個としての身体を保持していくのかということを問えば、多分愛とか性の問題も出てくる。そうなると、類型的な表現では満足しないし、ゲームでやっていても多分面白くもない。どうしても相手がいてほしい。 語らいがあって、演技があって、社交があって、喜んだり悲しんだりする。そういう一回性の自由が最大限担保される社会とは何かと考えれば、どういう社会がいいのかというのは世界人類に自ずと明らかだとは思うんです。 資本主義がいいとか共産主義がいいとかではなく、そういう一人ひとりの肉体に即した幸せに言及するしかないくらい、世の中はせっぱ詰まっているのかもしれないと思いますね。