AIと人間を隔てるのは「身体性」...コンサートホールで体を震わせることこそ「人間的」だと言える理由
洗練を守る社会装置として
■洗練を守る社会装置として■ ■田所 1986年からの文化や社会の変遷について考えてきました。最後になりますが、これから先『アステイオン』のようなメディアには何ができるでしょうか。 ■三浦 舞踊は自分の身体を躾けるという点では個人的ですが、まさにその躾によって集団行動を可能にさせもします。 つまり舞踊の本質は武術の本質、軍隊の本質に繫がっているわけですが、この連携にひとつ見逃せない事実があって、それは舞踊の洗練には宮廷が必要とされるらしいということです。宮廷があるところではどんな舞踊も洗練されていく。逆も真。インドネシアは小さな地域一つひとつに舞踊があるし、タイにもある。しかし、植民地時代の長かったフィリピンにはありません。 重要なのは、宮廷は権力ではなく権威の源でしかない、そしてその権威は身体のありようと密接に結び付いているらしいということです。優雅と洗練が価値の中心になる。たとえば沖縄には宮廷があったから、優雅と洗練が舞踊の価値の中心になった。 舞台に出て来る足の運び方一つで演者の力量がわかる。芸の洗練は宮廷を必要とするというのは、いわば不都合な真実のようですが、そうではない、むしろたとえば山崎正和のいう社交の本質、文明の本質はそういうところにこそ潜むのではないか、と考えることもできる。 先ほどの若い世代の生き方の問題を解く鍵のひとつではないか、と。これは考え始めると奥が深くて、中国では宋代、つまり北宋、南宋が手がかりになるのではと思っていますが、『アステイオン』ではそういうことも論じてほしい(笑)。 ■片山 雅びと洗練ですね。佐治敬三さんや堤清二さんが一言言えば、「この現代音楽にこれくらいお金が出る」とか「この人に演奏を頼んでもいい」という世界がかつてありました。そうやって個人の判断によって残されるべき文化芸術が担保されてきました。 それが、80年代後半になると顕著ですが、「近代の徹底」と称して、公益性や透明性のチェックが進みます。こうした「みんなの納得」が最大価値になると、どうしても大衆的な価値観と結びついていきます。公益財団法人となれば「事業でどれだけの実績をあげていますか」と結局は数字の問題になってしまってどんどん窮屈になり、こういうホールでやってほしいものがやりにくくなっている。 86年からこの何十年かで変化したことというと、そこが結構大きいと思うんです。でも、「旦那の文化」とか「あの人が言っているから」という世界を今さら復活させるわけにはいきませんよね。 ■三浦 その「旦那芸」こそ、洗練されたものを育む権威なのだから、佐治さんたちがやってきたことについてはもっと敬意を表すべきだと思います。とはいえ、確かに「みんなの納得」は優雅と洗練を潰しますよね。で、「分かるものには分かるであろう」という小林秀雄の言葉が揶揄の対象になる。だけど、ぼくは小林のほうに立つ(笑)。 ■片山 民主主義と資本主義とがセットになると、そういう洗練を保つための仕掛けをどうしても壊していくことになる。それがここ何十年かの1つの問題点ですね。 福澤諭吉の『帝室論』には、皇室というのは豊かな財産を持ち、資本主義や民主主義的な世界では滅びてしまうような、皆が「値打ちがある」と言わないようなものにその財産を使うところに意味がある、と書いています。今の世の中でも変わらないはずです。 ■三浦 さすがに福澤ですね。最後に一言。僕は1990年前後、つまり世界の大転換のときに『アステイオン』の企画で、特派員として中東欧圏を取材させてもらいました。「座談会 涙の谷をこえて―東欧の『ヨーロッパ』への回帰」(23号、1992年)が結果の一部です。 これはサントリー文化財団と『アステイオン』がなかったらできなかったことで、大学などに所属していない僕のような批評家にはものすごく大きなプレゼントでした。深く感謝しています。 そういう体験をした書き手はほかにも大勢いると思いますよ。これは、劇場を建てることに匹敵する大きな社会的役割だと思う。その場所に行かなければわからないことはいっぱいありますから。こういったことは、これからもぜひ続けてもらえると有り難いですね。 ■田所 『アステイオン』がこれからもそういう洗練されたものを保つ仕掛け、社会装置になっていければいいと私も思っています。本日はありがとうございました。
片山杜秀 + 三浦雅士 + 田所昌幸