禁止令が出たことも!日本でかつてタブー視されていた「肉食」が普及していった納得の理由
随筆家の寺門静軒(てらかどせいけん)が書いた『江戸繁昌記』にも、猪などの獣肉を「山鯨」と称して食べることが天保期頃には盛んになったと記されている。 店内では、山鯨こと猪や鹿の肉に葱を加えて鍋で煮た料理が出された。幕末にあたる嘉永年間(1848~54)以降は、琉球鍋と称されて豚肉も出されるようになる。 江戸で獣肉を扱う料理屋は、北関東の山間部から材料の獣肉を得ていた。農民たちは猪鍋を「牡丹鍋」、鹿鍋を「紅葉鍋」などと称して食べており、鳥肉以外の獣肉を食べることにあまり抵抗感はなかった。とりわけ山間部ではその狩猟も盛んだったことから、獣肉の供給源にもなったのである。
■牛肉も江戸時代から食べられていた 明治に入ると、牛鍋屋が繁昌したことに象徴されるように、文明開化の時流を受けて欧米の食文化が日本人の間に広まる。よって、牛肉が食べられるようになったのは明治からという印象は今なお強いが、実は江戸時代から食べられていた。 江戸中期より、彦根藩井伊家では将軍や御三家、幕閣の要人に牛肉の味噌漬けを贈るのが習いとなっており、贈答先ではたいへん喜ばれた。 いわゆる近江牛である。高給品ではあったものの、将軍や大名の間ではすでに牛肉が食べられていた(原田信男『江戸の食生活』岩波書店)。
古来、日本は稲作や仏教との関係で肉食がタブー視された。そうした事情は江戸時代に入っても変わらなかったが、鳥は広く食べられ、時代が下るにつれて猪・鹿・豚・牛といった四つ足動物の肉も食べられるようになる。 こうした肉食の拡大は、泰平の世を背景に食生活を充実させたい人々の食欲がタブーを乗り越えていった過程に他ならなかった。
安藤 優一郎 :歴史家