若い女性はソ連兵に襲われないよう丸坊主に 94歳女性が語る戦争「死は当たり前、感覚鈍麻していた」
「あなたに伝える」 満州から引き揚げた長谷川マサ子さん(94)=京都市伏見区 子どもがいない伯父夫婦の養子になるため、小学4年だった1940(昭和15)年4月、滋賀県愛知川町(現愛荘町)から満州(現中国東北部)へ渡った。伯父は敦化(とんか)という街で映画館や食堂などを経営し、豪邸を持っていた。私は伯父の家から現地の小学校に通った。中国人のボーイが昼に弁当を届けてくれた。 【写真】当時の満州・敦化の町並み ■学校近くに焼夷弾「ソ連が攻めてきた」 3年後、吉林市にあった吉林高等女学校へ入った。満州も戦時下のため食料不足に陥っており、畑仕事をしたり、満蒙開拓団の手伝いとして子守や洗濯をさせられたりした。 旧ソ連が満州に侵攻した1945年8月9日、学校の寄宿舎で寝ていると、「バーン」と雷のような音がした。焼夷(しょうい)弾が近くに投下されたようで、光が見えた。学校から「ソ連が攻めてきた」と知らされ、ホテルに避難した。15日に玉音放送を聞き、日本の敗戦を知った。家に帰るため、関東軍の貨物列車で同級生とともに敦化へ向かった。 20日ごろに敦化の伯父の家に着いた。数日後、何個も腕時計をしたソ連兵が押し入り、金品を要求してきた。私と友人は部屋に隠れたが、ソ連兵に見つかり、友人が体をつかまれ、連れ去られそうになった。伯父が物品を渡して何とか追い返したが、「このままでは危ない」と、避難することにした。 日本軍の飛行場や開拓団の集落跡を転々とし、旅館だった建物にたどり着いた。屋根と柱はあるが、床は壊れていた。氷点下になる冬に備え、土を運んでオンドル(床暖房)を手作りした。 ■チフスで子ども数十人犠牲「また死んじゃった」 この建物には300人ほどが避難生活をしていた。発疹チフスがまん延し、子どもたちが次々に感染した。ドラム缶にお湯を沸かして煮沸消毒したが、数十人が亡くなった。知り合いの子もいた。遺体を埋める際、私は「また死んじゃった」としか思えなかった。人の死が当たり前の環境で、感覚が鈍麻していた。 敦化にあったパルプ工場の社宅で、多くの女性がソ連兵に性的暴行を受けた末、集団で服毒自殺したとの話を聞いた。捕まればひどい目に遭う。本当に恐ろしく、私たち若い女性はソ連兵に襲われないように丸坊主にし、男性の服を着た。 家族は避難所にある4畳半の部屋に伯父と伯母ら4人で身を寄せた。伯父は病を患い、1946年5月に亡くなった。その年の9月にようやく日本への引き揚げが実現した。奉天などを経由して葫蘆(ころ)島から船に乗り、博多へ上陸した。船を下りる時、シラミ対策として殺虫剤の「DDT」を頭から大量に散布された。日本には伯父の遺髪を持ち帰った。 満州は安全な場所だと思っていたが、8月9日を境に状況は一変した。多くの方が犠牲になったことを忘れないでほしい。