関東の名城、鎌倉に築かれた北条早雲の「玉縄城」は堅固な山城だった
もはや城の姿は想像できないが、遺構が大切に保存されていた
1512年、戦国時代初期の武将として知られる北条早雲(ほうじょうそううん)により築かれた「玉縄城(たまなわじょう)」は、東海道と鎌倉を結ぶ交通の要所に位置します。川に囲まれ、水堀の機能と共に水運の役目も果たすという機能面の強さもさることながら、歴代の名君が城主として引き継ぎ、堅固な城だったとも言われています。 【画像】堅固な山城だった鎌倉の「玉縄城跡」を画像で見る(24枚)
三浦半島の三浦氏、房州の里美氏の軍勢を止め、1561年には上杉謙信(うえすぎけんしん)の包囲でも堕ちず、1569年、甲州の武田勢の攻めにも安泰。1590年の豊臣秀吉の「小田原攻め」の際は、徳川家康勢の包囲でも力づくでは堕ちなかったとされています。最終的には無血開城となりましたが、それほどまでに強固な山城だったということがわかります。 さて、まず最初にバイクで訪れたのは「太鼓櫓跡(たいこやぐらあと)」付近です。場所的には「七曲坂(ななまがりざか)」を上り切ったところにあります。周囲は民家がぎっしりと建ち並んでいるので城があったことは想像しにくいです。ここは市民緑地として開放されており、麓にある駐車スペースにバイクを停めると散策しやすいでしょう。
まずは本丸の大手門跡の解説版を発見。現在は清泉女学院の裏門になっているため中に入ることはできませんが、かつては「玉縄城」の大手門だったところです。五角形の巨大な本丸の様子が窺える、1960年に撮影された写真も見ることができました。 太鼓櫓の南側の崖下には小規模の平場が展開されており、これが「煙硝蔵(えんしょうぐら)」、つまり武器弾薬庫の跡だとされています。 じつは「玉縄城址」を守る活動を行なっている市民団体が作成したホームページで、見事な堀切の跡などの写真を見ることができるのですが、それは西側の門扉から階段を降りて平場に立たないと見られない光景のようです。残念ながら整備中とのことで封鎖されていたので、中に入ることはできませんでした。 しかしホームページの充実、市民ボランティアによって綺麗に整備された七曲坂やこの緑地などを見ることができるだけでも、城跡好きな身にとってはありがたい限りです。