イギリス外交官が「幕末の日本」を訪れたとき「最初に感動したこと」
江戸湾を北上
日本はいったい、世界のなかでどのような立ち位置を占めているのか。 世界情勢が混乱するなか、こうした問題について考える機会が増えた人も多いかもしれません。 【写真】アーネスト・サトウは、こんな顔でした 日本が世界に占める位置を、歴史的な視点をもって考えるうえで非常に役に立つのが、『一外交官の見た明治維新』(講談社学術文庫)という本です。 著者は、イギリスの外交官であるアーネスト・メイスン・サトウ。1843年にイギリスに生まれたサトウは、明治初期の日本を訪れ、在日イギリス公使館の通訳官や、駐日公使を務めました。 本書は、サトウが日本に滞在した期間に見聞きしたことをまとめたもの。そこからは、当時の日本が世界のなかでどのような立ち位置にあったのか、イギリスという「文明国」から日本がどう見えていたのか、そのころの国際情勢、そして、当時の日本社会のあり方がよく伝わってきます。 たとえば、サトウが1862年、それまで滞在していた中国から航路で日本に到着し、江戸湾を北上していく様子はきわめて印象的です。 〈ロバートソンと私は汽船ランスフィールド号に乗船して、九月二日に日本に向けて出港した。中国沿岸を離れてはじめて見た陸地は九州南岸沖の火山島である硫黄島で、七日には深い霧の中を進み、気がついたときには伊豆半島に接近していた。幸運なことに霧が一時的に晴れ、この航路での経験が浅かった船長は航路を変更し、船は島々のすぐ横を走った。〉 〈翌朝早く、我々は青い波をかき分けながらフリース島(編集部注:伊豆大島のこと)の東側を航行し、右手側に鋸山の森林を、左手側に浦賀の小さな入り江を、正面に広い湾を望みながら横浜へと進んでいった。 日本では快晴の日が多いが、この日はまさにそんな天気だった。江戸湾に入りながら、この景色に勝るものは世界中どこにもないだろうと思ったものである。南岸にはイレギュラーな形をした数々の丘があり、それらは深緑の木々に覆われていた。 そしてその背景には、微かな残雪を湛えた一万二千フィートの壮大な富士の尾根がそびえたっていた。西側の平野には大山をはじめとする数々の気品ある丘があり、それとは対照的に右手側には砂浜が広がっており、それは首都のある方向へと延びながら水平線の向こう側へと沈んでいった。 無彩色の木材を緩やかに結び合わせ、四スクエアほどの小さな帆を掲げた鴨のような形をした小舟が、きらきらと光る海上を埋め尽くしていた。我々の船は、日焼けで肌が赤胴色になった漁民のすぐ横を何度も通り過ぎ、彼らの様子をうかがうことができた。そのほとんどは腰巻にしていた白い布の他には何も纏っておらずほぼ裸だったが、中には鼻のまわりに青いぼろきれを巻き、目と顎しか見えないような人もいた。 そうしているうちに、ようやくミシシッピー湾(編集部注:根岸湾のこと)の白い崖が近く、鮮明に見えるようになった。我々はトリーティー岬(編集部注:本牧鼻のこと)を迂回しながら進んで碇泊地のすぐ沖合に投錨した。一年の時を経て、私はようやく望んでやまなかった目的を達成できたのである。〉 サトウが日本を訪れた16年後の1878年、やはりイギリスの旅行作家であるイザベラ・バードが日本を訪れますが、そのときにもやはり「江戸湾」の美しさに感動しています。当時の日本の風景は、西欧人の目から見て、驚くほどの美しさだったようです。 * さらに【つづき】「19世紀のイギリス外交官は、なぜ「日本という極東の国」に魅入られたのか? その意外な理由」では、サトウが日本に惹かれたきっかけについてくわしく紹介しています。
学術文庫&選書メチエ編集部