詩人・歌手・俳優の三上寛さん「故郷の津軽に現代詩を専門に教える大学をつくりたいなぁ」【死ぬまでにやりたいこれだけのこと】
モヒカン刈りの新聞配達人
スポーツ新聞の求人欄で見つけた東京・沼袋の東京新聞の販売店で働くことになった。仕事に慣れるとヘアスタイルをモヒカン刈りにした。東京でも目立っていたねぇ。 東京新聞400部とは別に夕刊の即売紙・東京スポーツを10部配っていた。東スポ購読者のひとり、沼袋でスナックを経営していた原田さんに言われた。「おもしれぇ~頭してんな。なんかやってんのか?」「歌をやってます」「今晩ウチでやってくれ」。生まれて初めてのライブ演奏。オリジナル曲「なぜ」を歌い終わると原田さん、奥さんのママさん、お客さんも全員が泣いていた。 不動産業も営んでいた原田さんのところに、寺山修司が作詞した「時には母のない子のように」を歌ってブレークしていたカルメン・マキが部屋を探しにやってきた。 「新たに劇団を立ち上げるのに面白いヤツを知りませんか?」と聞かれて「モヒカン刈りで歌っている新聞配達人がいる」と言っておいた。「オマエ、行ってみろよ」。さっそく出掛けて行った。 待ち合わせ場所は、東京タワーの真下にあった東京12チャンネル(現テレビ東京)。マキ、後に「私は泣いています」の大ヒット曲で知られるりりィ、寺山修司が主宰する「天井桟敷」の劇団員の支那虎がいた。もうひとり、東京12チャンネルのディレクターの田原総一朗さんもいたなぁ。 新聞販売店の仕事を辞めフーテン暮らしをしていると田原さんの元上司・ばばこういちさんから「君には歌の才能がある。世に出るべきだ」と言われた。1971年3月にコロムビアから「馬鹿ぶし」でデビュー。4月にアルバム「三上寛の世界」をリリースした。 その年の8月、岐阜で行われた「第3回全日本(別称・中津川)フォークジャンボリー」のステージに立つことになった。バイト先の新宿ゴールデン街の飲み屋「唯尼庵」で朝までしこたま飲んでから、チャーターバスに乗り込んだ。 オレの名前はプログラムにもポスターにも載っていなかったが、主催者側には「観客がバカ騒ぎして客席が荒れたら隠し玉として歌わせる」という意図もあったみたい。 巨大な特設ステージに立つと眼前に3万人の大観衆。でも、気負いや緊張はなかったね。歌い終わってステージを下りる時、大声援は「三上寛を受け入れた!」というものだった。柳行李ひとつと3000円を握り締めて青森を後にした津軽の田舎者が、日本で最もラジカルな唄を歌うフォークシンガーになった。 すっかり有名人になってしまい、秋の学園祭シーズンには京都大、法政大、国立音楽大などでもてはやされたねぇ。 でも「夢は詩人。唄を歌っている場合か」という思いが、いつも胸の中に渦巻いていた。 72年に天井桟敷の「邪宗門」に出演してからテレビドラマの「大都会パートⅡ」、寺山修司監督の映画「田園に死す」に出たり、深作欣二監督に誘われて「新仁義なき戦い 組長の首」(75年)に出演できたのはうれしかったねぇ。 ■「探偵物語」出演を断ったら優作が椅子から転げ落ちた 役者稼業も楽しかったけど……78年だったかな。「大都会パートⅡ」で一緒だった松田優作に東京・下北沢の焼き鳥屋で「寛ちゃん、もう歌はいいよ。役者一本でいこうよ。いい企画があるんだ」と言われた。 同席していた監督の村川透さんが、あらすじを書いたペーパーを見せてくれた。「ゴールデン街の裏庭に小太りのチビとノッポの探偵が住んでいた」。そう! 大ヒットした日本テレビ系のテレビドラマ「探偵物語」です。 こんなおいしい話、普通は即イエスですよ。オレが「いや、歌でいきたい」と断ると優作も村川監督も驚きのあまり、椅子から転げ落ちてしまった。あの時、仮に「いいよ」と応えていたら「今の三上寛」はいなかっただろう。でも、オレってあくまで「こっち側」の人間だからね。 その「こっち側」のひとつが、90年の6月に大阪で始めた「詩学校」です。生徒を募って現代詩を教えています。2008年からは東京でもやっています。「個々のレベルに合わせてテーマを出題。それに添って自由に書いてもらってアドバイスと添削指導を行う」というスタイル。1対1なのでライブを3回やるくらい疲れますが、上達する姿を見るのがたまらない。 死ぬまでに現代詩の創作を専門に教える大学を故郷につくりたいなぁ。 海や山に囲まれ、冬は雪に閉ざされる津軽地方は、じっくり詩作に耽るのに最適だと思うんですよ。小さくても飛行場を併設し、世界中の詩人が集う場所にしたい。歌手でも俳優でもない、詩人になるために故郷・小泊村を捨てた男の夢です。 (聞き手=絹見誠司/日刊ゲンダイ)