詩人・歌手・俳優の三上寛さん「故郷の津軽に現代詩を専門に教える大学をつくりたいなぁ」【死ぬまでにやりたいこれだけのこと】
【死ぬまでにやりたいこれだけのこと】 三上寛さん(詩人・歌手・俳優/74歳) ◇ ◇ ◇ 【写真】シリーズ「死ぬまでにやりたいこれだけのこと」のインタビューで笑顔を見せるイルカさん 「最もラジカルなフォークシンガー」「個性派俳優」「詩人」「異端の怨歌フォーク歌手」──。多種多様な「顔」を持つ男の数奇な人生は「奇跡的な出会い」によっても彩られている。18歳で故郷・青森を飛び出して誰と出会い、どうやって「心の奥底から湧き上がる思いを言葉にして吐き出してきた」のか? 74年の人生をたどりながら「死ぬまでにやりたいこと」を聞いた。 生まれは東北の小さな漁村(北津軽郡小泊村=現・同郡中泊町)だし、楽器屋もレコード屋もなかったなぁ。 ギターとの出会いは遅くなかった。中学2年の初夏。近所を歩いていたら、同級生の正人が窓辺に座り、ギター(の開放弦)を「ピーン」と爪弾いた。その音色を聞いた衝撃たるや! オレのギター人生の原点だね。 小学4年の時、泉谷明先生が国立の弘前大を卒業して赴任してきた。先生は「モヒカン先生」として有名だった。あの時代の津軽でモヒカンですよ。周囲はびっくり仰天です。でも、オレは違った。先生が詩を創作していると聞いて「東京に行ってモヒカン刈りにして詩人になる!」と決めていた。このモヒカン刈りが、オレが歌い手になる糸口になりました。 高校は50キロほど離れた五所川原高に進み、下宿生活が始まった。独学でギターを覚え、その頃はボブ・ディランに傾倒……って言いたいところですが、小林旭やグループサウンズをやってました。 ■明けても暮れても寺山修司 高校2年、修学旅行先の京都で「寺山修司」と出会った。土産物店が立ち並ぶ新京極を歩いていると「家出のすすめ」という本が目に入り、一気にはまりましたね。著者が、同じ青森県人というのも衝撃的でした。 それから明けても暮れても寺山修司。ひたすら詩作に没頭し、生徒会長の職権を乱用して謄写版を無断で使い、ガリ版刷りの詩集「白い彫刻」を出した。これが「鶴見の智子さん」との出会いを仲立ちし、そこから本物の寺山修司との関係がつながることになった。 神奈川・鶴見女子短大に進学した高校の先輩が同級生4、5人と太宰治の生家(青森・金木町)を訪れた際、偶然にも初詩集を読んでくれた。 翌年の夏休み、彼女たちが再び津軽までやって来て「寺山修司を尊敬している詩集の作者」に会いに来てくれたんだ。 そこで(中川)智子さんに「秋の学園祭に寺山修司さんが来てくれるから、アナタの詩集を渡してあげる」と言われた。 秋に智子さんからハガキが届いた。寺山修司が「この子は詩人だね」と言っていた。そう書いてあった。「よし! オレは東京でプロの詩人になるんだ!」。振り返ると思い込みもはなはだしいが、オレの人生は決まったと信じた。もう怖いモンなんてなかったね。 でも、オヤジが高校1年の12月に死んで「東京に行って詩人になる」なんてオフクロには言えなかった。就職先を探すことになって警察官をやっている親戚に言われ、青森県の警察学校に入るわけですよ。「水が合わない」と思って4カ月で辞めて実家に戻っても肩身が狭くて居心地が悪い。 そこでオフクロをだますことにした。 「神奈川・藤沢で板前修業。10年経ったら津軽に店を構える。仕送りもする。心配しないでくれ」 受け入れ先の割烹店は4カ月で辞めた。寮に戻らず、タクシーの運転手さんに「東京方面に1000円で行けるところまで」。降り立ったところは、鶴見の智子さんの住んでいるそばだった。 後に衆議院議員や宝塚市長を務める智子さんとの出会いが、ここでもオレの人生の分岐点に大きく関わったわけだな。