相川七瀬「3児の母として、歌手も続けながら大学進学。私が勉強をする理由」
歌手としての活動を続けながら、3児の母でもある相川七瀬さん。子育ての傍ら受験勉強に励み、45歳で國學院大學神道文化学部に合格、さらに2024年4月からは同大学大学院に進学します。歌手・母親・学生と三足の草鞋を履く相川さんに、今までの人生の歩みと共に、活動の原動力を伺いました(構成◎丸山あかね) 【写真】手にいっぱいの稲!赤米の稲刈りを行う相川さん * * * * * * * ◆死に物狂いで卒論を書いて 國學院大學神道文化学部を卒業し、4月から大学院へ進学します。大学では日本の文化や神道について学びました。卒論のテーマは「変わりゆく地縁の中での新しい祭りの意義」。現代の、特に都心では地縁が薄くなっていて、神社も氏子がいなくなってきている。 そもそもどこが自分の暮らす地域の氏神様なのかさえ知らない人が増えています。地方は地方で若者が故郷を離れてしまい祭りをしようとしても人手が足りない。80代の人たちが中心となって行い、70代は若手といわれているというのが現状です。そんな中でどうやって伝統的な祭りを継承していけるのか? といったことについての論文をまとめました。 卒論は冗談ではなく、ホントに頭がパンクするかと思いました(笑)。書き始めたのは8月だったのですが、どんどん内容に納得できなくなってきて、11月に違う観点から書き直すことにしたんです。なので、12月は追い込みで本当にしんどかった。途中で先生に見せたら赤字だらけで戻ってきたりもして、とにかく提出する直前までパニック状態でした。
◆コンプレックスを味方に 國學院大學に入ったのは45歳の時でしたが、実は大学へ行くまでの前段階があって、私は高校卒業認定を取得することからはじめました。最初に神道を学びたいと周囲の人に打ち明けたとき、今までの社会の経験を活かして、最初から大学院に入学すればいいという意見がほとんどでした。確かにそういうやり方もあるなと思いましたが、自分的には不安でした。基礎が足りないことは自分が一番よくわかっていたので。 もう一つ、私は高校を中退しているというコンプレックスを抱えていました。私は幼い頃から歌手になりたくて、中学の時に受けたオーディションで織田哲郎さんと出会いました。20歳で上京するまでは、アルバイトをしながらボーカルトレーニングなどをする日々でしたが、1995年に発表したデビュー曲「夢見る少女じゃいられない」がヒットし、その後も曲に恵まれ、たくさんの方々に支えられて今日まで来ました。ですので歌手人生においては感謝しかありません。 でも一人の人間としては置き去りにしてきたものがあると思っていました。しかもその想いは年を重ねるごとに深くなっていき、結婚しても、お母さんになってからもずっとずっと、いつか高校を卒業したいと考えていました。その一方でどうせダメだ、今更ムリだと思っている自分もいて……。そんな私の背中を押してくれたのが神道に対する興味でした。学びのテーマをみつけ、やっとその時が来たと感じました。せっかくの機会だから、みんなが高校で学んでいるはずのことを知らないから理解できないのだというようなことだけは避けたかった。だから卒業認定試験を受けることからはじめるというのは遠回りのようでいて、一番の早道なのではないかと思いました。 そうと決めたらコンプレックスは大きな味方になってくれました。30年ぶりに教科書を開いた時は戸惑いに溢れていましたが、わからないものはわからない。これは独学では無理だと潔く認めて家庭教師を頼むことにしました。「自分はダメだ」で終わるのではなく、「最初からできる人はいないんだから、今から一から学ぶんだ」って素直に思うことができてよかったです。
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