「峠の釜めし」の荻野屋は、なぜ東京・銀座に進出したのか?
●北陸新幹線(高崎~長野間)開業に向けて、高速道路にシフト!
―平成9(1997)年の信越本線・横川~軽井沢間の廃線は、駅売りとしては大打撃だったと思いますが、事前にどんな準備をされたのでしょうか? 髙見澤:北陸新幹線開業前から、(構内営業者だった)油屋さんの撤退後、軽井沢駅で販売を始めていました。加えて、それまで「ドライブイン」をやっていた知見が活きました。平成9(1997)年は、ちょうど長野オリンピックの開催に向かって盛り上がっているタイミングでしたし、先立って上信越自動車道が開通して、横川にサービスエリアが設けられて「上り」を取れたことや諏訪の拠点もあって、売り上げ自体は非常に好調でした。 ―北陸新幹線の開業当時は、釜めしの「車内販売」もありましたね? 髙見澤:車内販売のNREさん(当時)に「峠の釜めしの車内販売をさせて欲しい」とお願いし、釜の重さに耐えられる特別なワゴンを作って、販売にこぎつけました。残念ながら、長野新幹線(当時)だけの車内販売では、なかなか売り上げが伸びなかったのが正直なところです。後年、JRさんのお力添えもあって、高崎駅などでも「峠の釜めし」の販売ができるようになりました。
●「常に人がいる」マーケットで展開することで、会社を次へつなぎたい!
―平成29(2017)年、「GINZA SIX」へ都内初出店されたのはなぜですか? 髙見澤:私が平成15(2003)年に入社し、社長になる前から思い描いていた構想でした。観光需要に特化した事業の危うさを感じていて、少し災害があっただけで一気にお客様はお見えにならなくなります。例えば、浅間山の噴火があると、ツアーのお客様のキャンセルが相次ぎます。そこで「常に人がいる」マーケットでやらなければならないということで、東京に進出したわけです。会社のリスクヘッジという観点が、理由の1つですね。 ―その後、有楽町や神田のガード下に出されたお店には、どんな狙いがありますか? 髙見澤:コロナ禍において飲食店の撤退が相次ぎましたが、新規出店をする企業は、ほとんどいなかったと思います。しかし「周囲がやらないときにやるべき」という考えが自分のなかにあり、出店を決断しました。有楽町や神田のお店はテイクアウトがメインで、軽く呑みもできる場所というコンセプトです。弊社の宣伝効果はもちろんですが、コロナ禍で「観光」が落ち込んでいた当時、群馬県や長野県をアピールしたいという狙いもありました。