【パリ五輪を戦った大岩剛の回顧録|前編】セレクターは違う、ティーチャーだ。高井幸大にも諦めず愛情を注ぐ「ケツを叩くしかなかった」
「僕としては物足りなさがあった」
8月2日に行なわれたスペイン戦。0-3で敗れ、パリ五輪の戦いは準々決勝で幕を閉じた。試合後、フラッシュインタビューに応えた大岩剛監督は「このチームを振り返ると?」と尋ねられると、言葉に詰まった。涙腺が緩み、被っていた帽子で目を覆い隠す。なんとか言葉を紡ごうとしたが、感極まった指揮官は「OK」と絞り出すのが精一杯だった。 【画像】華やかに可憐にピッチで輝く!世界の“美女フットボーラー”を一挙紹介! 苦難の連続で五輪世代特有の問題に直面し、頭を抱えた日は一度や二度ではない。それでも、代表活動という限られた時間の中で選手たちと向き合い、さらなる高みを目ざすために尽力してきた。 積み重なった想いが最後の最後に溢れ出たのだろう。パリ五輪後にU-23日本代表の指揮官を退任した大岩監督に話を訊いた。 ――◆――◆―― 2021年の10月初旬。JFAの指導者養成インストラクターを務めていた大岩監督のもとに、当時の反町康治技術委員長からパリ五輪世代の指揮官就任の話が届いた。Jクラブからも誘いがあったが、オファーを受諾。同年12月に正式に就任し、翌年3月上旬の国内合宿でチームが発足した。 監督として五輪世代の選手に携わっていくと、難しさを味わうことになる。五輪でメダルを取るための道筋を立てる作業は簡単ではなく、選手たちとの関係性も短い活動期間で構築していく必要があった。クラブチームの指揮官とは異なる状況のなかで、大岩監督は選手たちに「ギャップを感じた」という。では、具体的に何を思ったのだろうか。 「(僕に対して)探っているなという想いと同時に、意外とできないと感じる場面があった。こちらが何か言ってもリアクションが薄かったんです。選手が探っているのも分かるけど、技術面で『やってくれ』と言っても反応が鈍い。冷静に見ると、僕としては物足りなさがあった。そのような反応になったのは、いろんな理由があったと思う。 クラブで試合に出続けられていないこともそう。単純に年齢的なところで、20歳前後の選手たちが迷いながら戦っているのもそう。それは分かるけど、U-20ワールドカップも中止になったけど、2年後の五輪に向けて集まったとしても、まだフワフワしたところがあった。だから、就任1年目で最初の合宿となった3月下旬のドバイカップも、直後のU-23アジアカップも(アプローチに)手応えがなかったんですよ」 パリ五輪世代のチームが発足した当初、ほとんどの選手が所属クラブで絶対的な存在ではなく、試合に出られていない者も多かった。23年になっても状況は変わらず、むしろ後退したと言える。前年までレギュラーだった選手が控えに回っているケースも珍しくなかったからだ。そのなかで、大岩監督はいかにして彼らと向き合ってきたのか。それがティーチャーとして振る舞うことだった。 「代表監督は(選手を選ぶ立場なので)セレクターと言われている。でも、実際に何度も活動をしていくと、違うと感じるようになった。最初は迷いながらやっていたけど、選んだうえで選手に(成長できる要素を)提供しないといけないと気が付いたんです。ケツを叩いてあげるしかない」