草彅剛主演『ヴェニスの商人』開幕、シェイクスピアの傑作が現代に問いかける正義とは何か
草彅剛は、役の人生を背負い込む俳優だ
俳優たちは、それぞれ力のあるところを見せている。中でもユニークな印象を残すのが、バサーニオ役の野村周平だ。このバサーニオは、率直に言ってそれほど魅力的な男ではない。浅薄で、軽率。激しい愛の持ち主と言えば聞こえがいいが、裏返すと非常に場当たり的で、彼の吐く情熱の言葉をどこまで信用していいかわからない。そのちょっと誠実さに欠けるところを、野村周平がうまく表現している。人間の俗っぽさを演じさせると、野村周平は抜群に光る。 男たちの情けなさが際立つ一方、本作における女性たちは実に賢く頼もしい。その中心的存在が、佐久間由衣演じるポーシャだ。金・銀・鉛の3つの箱から正しい箱を選んだ男と結婚せよという亡き父の遺言に振り回されながらも、ちっともか弱き令嬢ではない。むしろ気丈で気高く、堂々とした印象を残す。その強さと聡明さが、第二幕への布石となっている。170cmという長身の佐久間由衣の立ち姿は舞台に映え、ドレスの着こなしもため息が出るほど絵になる。そこに、侍女のネリッサを演じる長井短の飄々とした持ち味が組み合わさり、女2人の息の合ったコンビネーションが現代的な溌剌さを醸し出していた。 何よりシャイロックを演じる草彅剛の圧倒的な存在感に目を奪われる。地声よりも低く、しわがれた声色で、シャイロックの悪辣ぶりを強調する。歩き方にも癖があり、一筋縄ではいかない曲者であることが語らずとも伝わってくる。だが、こうしたテクニック的なことより、草彅剛を名優たらしめているのは、彼が演じるとその役の背景が途端に立体的になるのだ。 ユダヤ人であるシャイロックはこれまで様々な迫害を受けてきた。犬畜生と呼ばれ、商売もことごとく邪魔されてきた。その屈辱は台詞で説明されるだけだが、なぜか彼がこれまで受けてきた仕打ちの数々が、映画の回想のように眼前に浮かぶ。それは、草彅剛が役の人生を背負える俳優だからだろう。『青天を衝く』も『拾われた男』も『ブギウギ』もそうだった。台本に描かれていないところまで、不思議と想像させてしまう。だからつい草彅剛が演じる役の人生に、観る者が入り込む。 きっと多くの観客が思うことだろう、シャイロックは果たして“稀代の悪役”なのかと。むしろ善良とされるアントーニオの、ユダヤ人に対する差別的な態度のほうがよほど醜く見える。そして、この違和感こそが令和の世に『ヴェニスの商人』が上演される意義だ。 昨今、どのニュースソースを当たるかで、人や物事の見え方がまるで変わる事象を私たちは目の当たりにしている。テレビのワイドショーではひどい悪人として報道されている人物が、SNSでは高潔な正義の人として語られる。どちらが真実なのか、簡単に断定することなんてできない。むしろ容易に裁けると思ってしまう短慮な目と心にこそ、混沌の要因があるような気さえする。正義とは、それほどひどく曖昧で、足元の覚束ないものなのだ。 シャイロックは、アントーニオから1ポンドの肉を切り取ることができるのか。第二幕で、その裁きは下される。だが、本当に問われているのは、きっとそこではない。シャイロックは、悪役か否か。その裁定は、観客一人ひとりに委ねられている。 取材・文/横川良明 編集/小島靖彦(Bezzy)