はたして<この距離>で織田・徳川連合軍は三段撃ちできたのか…本郷和人先生と長篠・設楽原を実際に歩いてわかった合戦の事実
まもなく関ヶ原の戦いを迎えるNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。一方「婦人公論.jp」ではドラマの解説記事を、東京大学史料編纂所・本郷和人先生に連載いただいてまいりました。クライマックスを迎えるにあたり、思い立った我々編集部は読売旅行さんと相談、先生のご解説を交えて家康の岐路となった古戦場を巡るツアーを開催しました! 巡ったのは桶狭間、長篠・設楽原、小牧・長久手、そして関ヶ原の4カ所。日本史や家康、ドラマや先生のファンにとって、たまらない旅となりましたが、今回記事を通じてそのコースをたどり、現場ならではのロマンと知的興奮を読者の皆さんにおすそ分けいたします。その2は「長篠・設楽原」について。 【写真】写真の左が馬防柵。写真右、畑の途切れた部分が両軍の間を分けた川ということで、その距離感がよくわかる * * * * * * * ◆バスは長篠・設楽原へ 本郷和人先生と徳川家康の人生の岐路となった古戦場を巡るツアー、二か所目の訪問先は長篠・設楽原。 桶狭間古戦場公園を出たバスは70キロほど高速道路を走り、次なる目的地となる長篠城址および長篠城址史跡保存館へ向かいます。 あらためて長篠の戦いとは、天正3年5月21日(1575年)に、三河国長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、38,000人の織田信長・徳川家康連合軍と、15,000人の武田勝頼の軍勢が激突した合戦のことを指します。 一般的には、父の信玄の跡を継いだ勝頼が家康の領地である長篠城を攻めるも、火縄銃を存分に活用した織田・徳川軍の前に大敗。武田家の衰退と織田・徳川の台頭の契機となったと言われます。
◆本郷先生の解説 バスの中ではそうした背景説明に加えて… ●長篠城を守る徳川方・奥平信昌を救うためのいわゆる「後詰めの戦い」であったこと ●「後詰めの戦い」をしないと信頼が損なわれる。だからこそ非常に重要ということ ●武田が徳川に勝った三方ヶ原の戦いで、3万近かった武田軍が半分ほどに減っていたのは、それまでに一度も負けたことが無いという勝頼の自信過剰もあったのでは ●武田と徳川の領地の境目になっていた長篠という場所の地理的な重要性 ●酒井忠次が提案した鳶ヶ巣砦急襲策を信長がいったん「つまらない」と切り捨てたのは武田方への情報漏洩を防ぐため ●有名な三段撃ちの実現可能性 などの解説が本郷先生によりなされました。 桶狭間でも実感しましたが、先生に解説をいただいたうえで現場へ足を運んでみると、見えてくる景色が大きく変わってくるのが驚きです。
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