二人の少女が惨殺された「福岡の事件」でここにきて浮上してきた「まさかの新証拠」の中身
誰に対しても等距離に
――取材をして、中立に物を見たり、撮影するのはとても難しいことだと感じました。これは冤罪じゃないかと疑いながら話を聞くとか、警察の方がこの人が犯人だと確信を持って話しているときも、取材している側は反対側に立たなきゃいけないのをどう感じているのでしょうか。意識しているということは、むしろ中立じゃない形になるんじゃないかと。 そこ気になりますよね。 ある方から言われたのは、「木寺さんこそジキルとハイドじゃないですか」と。十数年前にこの企画を最初に立ち上げようとしたときは、弁護団の側に足場を置いた取材を始めたんですね。 でも死刑執行後の再審について番組を作るのはNHKではなかなか難しくて、西日本新聞、警察と多角的な取材になっていったんですけれども、やはり警察官を口説く、納得してもらうために自分がどういう言葉を持てるか、面と向かったときに何を話せるかとなったとき、正義という言葉が浮かんだんです。 それぞれの正義、という言葉ですね。 警察官にとっての正義、弁護士にとっての正義、西日本新聞記者にとっての正義、その言葉が浮かんできたんです。誰が犯人かとか、真実は何かを掘り下げていくという場合は、何かを見つけて決めていかないといけないと思うんですけど、それは自分の中で難しいと思いましたので、三者それぞれの正義を掘り下げることはできるんじゃないかと。 しかもそれをできるだけ等距離で、相手に嘘をつくことなく、疑問を持ったら疑問を提示する。 たとえば山方捜査一課長には「本当に(警察官が証拠の)捏造やってないと思いますか」と聴く。あるいは久間さんの奥さんに「ご主人は(事件後)車を洗いましたよね。あれはなぜなんですか」とあまり聴かれたくないことを聴く。それぞれに疑問をぶつけながら、正義を探っていく。そういう手法をとったんです。 なので、中立という言葉が当たっているか分からないですが、その人たちにどう等距離で向き合うかということはできるだけやったといいますか、自分の中ではできる限りのことをやったかなと思っているんです。
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