「“大谷様”と呼ばないとアカン。あの時はすいませんでした(笑)」ロッテ・田村龍弘が初めて明かす“メル友”だった花巻東・大谷翔平のこと
「無理や。歩かそう」
捕手・田村の記憶に鮮明に残っているのは最終回の大谷の打席だ。 「バッティングがエグイというのは、もちろんわかっていました。その中で大谷をどう抑えるか。同点で迎えた最終回にライトポールを越える特大ファウルを打たれて、バッテリーで、これは打ち取るのは無理だという話をしました。ビビる、というか悟ったという感じ。『無理や。歩かそう。次の打者で勝負しよう』と四球で歩かせて後続を抑えてなんとか勝ったんです」 当時を振り返り、懐かしそうに笑った。 結果的に花巻東高を準決勝で破った光星学院は東北大会で優勝。さらに神宮大会でも優勝した。バッテリーの冷静な判断で大谷を敬遠して、つかみ取った栄光であった。
大谷が光星学院の寮に…
田村はそのころから大谷とメールのやりとりを始めている。キッカケは花巻東高が練習試合の遠征で青森を訪れた際、光星学院の寮に泊まることになったこと。話をするようになり、お互いの連絡先を交換した。 さらに3年夏の甲子園大会後に参加したU18世界野球では、日本代表としてチームメートになった。田村は2年時に春夏と甲子園出場し夏は準優勝、3年時も春夏と甲子園出場してともに準優勝と大舞台で活躍し、大谷に負けじと高校野球界でその名が知られる存在となっていた。 「メールも頻繁にはやりとりはしていないけど、何度か連絡しました。ジャパンでは、そういうこともあってよく一緒にいたり、話をしたりしましたね。どうやって打っているのとかよく教えてもらった。野球の話ばっかりだったと思う」
3番・田村、4番・大谷
日本代表には同じ捕手に大阪桐蔭の2年生・森友哉(現オリックス)がいたこともあり、田村は捕手ではなく、三塁を守った。ブルペンも含めて投手・大谷の投球を受けることはなかったが、バッターとしては4番・大谷、3番・田村でクリーンアップを組んだ。世代最強が集う日本代表の中軸を2人で担えたことは、田村にとって今も誇らしい思い出として胸に残る。 「後輩とかには冗談で自慢しますね。ジャパンで3番オレ、4番大谷やぞ、って。これを言うとみんな『オオッ』となるし。プレーではないけど、覚えているのは韓国との試合後に大谷と2人で話をして、韓国の選手とバットを交換したこと。このエピソードはテレビでも紹介されましたね。そういうのも、今はいい思い出かな」 高校時代、捕手・田村、打者・大谷としての間接的な対戦は何度かあったが、投手・大谷と対峙したのは1打席だけだった。3年生の時、光星学院のグラウンドで行った練習試合での対戦だ。結果はライトへの犠牲フライ。その思い出も鮮やかに記憶に残っている。
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