世界最古の記録映像! 撃沈が捉えられた戦艦とは? 今はなき大帝国の崩壊の前兆か
就役するも海上封鎖で活躍できず
「セント・イシュトヴァーン」の母港はポーラ(現在のクロアチアの都市プーラ)で、第一次世界大戦のほとんどをポーラ近海で過ごしていました。これは、地中海に進出する玄関口のオトランド海峡が、フランスやイタリアからなる連合軍に封鎖されていたためです。 オトランド海峡封鎖は、オーストリア=ハンガリー帝国海軍の主力艦艇が地中海へと進出するのを阻止するために取られた連合国軍の作戦で、約100kmある海峡に無数の機雷を浮かべ、さらに駆逐艦や掃海艇などで航行妨害を実行する、連合軍の補助艦艇の豊富さと物量を活かした戦法でした。 オーストリア=ハンガリー帝国海軍は、敵の封鎖部隊に対し夜襲や潜水艦 を用いて突破を試みます。潜水艦の多くは突破に成功し、地中海などで大いに活躍することになりますが、水上艦はなかなか突破に成功せず、何隻もの艦艇が損傷しました。 これに業を煮やしたオーストリア=ハンガリー帝国海軍は1918年6月10日、大規模な攻撃を仕掛けます。その攻撃部隊の中に「セント・イシュトヴァーン」も含まれていました。
活路を開くために出撃! しかし……
いよいよ作戦実行のために、アドリア海に向けて出発した「セント・イシュトヴァーン」。しかし道中、イタリア海軍に発見され、魚雷挺の雷撃を受けて、右舷に魚雷が被弾するとすぐに傾きだし、ほどなくして転覆。そのまま沈没してしまいました。 1000人以上の乗組員の多くは海へ投げ出されてしまいましたが、死者は89人と比較的少数にとどまっています。これはオーストリア=ハンガリー帝国海軍が乗組員の水泳教育に力を入れていたことや、沈没当日は海がベタ凪(海面が風や波が全くない状態)で荒れていなかったからで、こうしたことが死者を最小限にとどめる要因になったと言われています。 この際の沈没の様子は、戦艦を撮影対象にしたものとしては、史上初めて動画で撮影されており、「セント・イシュトヴァーン」が転覆して海中に沈んでいく様子や、乗員たちが海に飛び込む様子、その後波のない海面を泳ぐ様子などが残されています。1918年に撮影されたとは思えないほど鮮明に残されたこの動画は、以後、赤十字の資金調達活動に使用されたと言われています。 ちなみに、日本では船が沈むという言葉がいくつかありますが、その中で特徴的な言葉が「轟沈(ごうちん)」です。一般的に沈む船は「沈没」と表記されますが、「轟沈」は、「損傷を受けてから1分以内に沈むこと」という意味があるのだそう。「セント・イシュトヴァーン」の動画は、かなり早いスピードで沈んでいることがわかります。損傷を受けてからどのくらいの時間があったのかはわかりませんが、沈没までの時間を考慮すると「轟沈」したと言ってもよいのかもしれません。
凪破真名(歴史ライター・編集)