戦争末期、街に1軒だけだった父の写真館には多くの軍人が出入りした。中には航空服の兵士も。夜間攻撃専門「芙蓉部隊」の隊員たちだ【証言 語り継ぐ戦争】
ある晩、寝ていたところを父に起こされたことがあった。「芙蓉部隊のお兄ちゃんたちが今から沖縄攻撃に行く。無事な生還を祈ろう」。離陸して上空を飛んでいく攻撃機のエンジン音に、父とともに耳を澄ませたことを覚えている。 父は夜になると、自転車に乗って、志布志線沿線にあった芙蓉部隊の宿舎に向かうことがあった。航空隊が持っていた写真原板をひそかに分けてもらっていたらしい。鹿児島県写真師会の曽於支部長を務めていた父にとって、民間供給が滞っていた原板を、支部員のために確保するのも大きな役割だった。 先に述べた遺影については後日談がある。戦後、物資不足で遺影を入れる額のガラスがないため、写真館で無事だった窓ガラスを取り外し、近くの指物師に、ガラスの大きさに合わせた額を作ってもらっていた。でも、戦死者の数が多すぎて、とても需要を満たせなかった。 (2024年8月15日付紙面掲載「写真館の一人息子㊤」より)
南日本新聞 | 鹿児島
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