日本人はロシア人とユダヤ人のジョークを理解できるか
サンタクロースとユダヤ人の違いは?
もう一つ、ジョークの観点から、筆者が留学していたイスラエルにまつわる思い出を紹介したい。数年前、まだイスラエルとパレスチナ問題が今よりは安定していた頃、筆者の友人Aさんとその友達Bさんという2人のイスラエル人が京都に遊びに来てくれた。京都の町を色々と案内し、最後にバーでゆったりとお酒を共にした。 酔いが回ってきたからであろう、Bさんが、「徳永さんはイスラエルに留学していたのだから、当然ユダヤのジョークは勉強しましたよね。一つ私からも披露させてください。サンタクロースとユダヤ人の違いは何ですか?」と切り出した。筆者がわからず困っていると、答えの見当がついたのだろう、友人のAさんが既にクスクス笑い始めている。少し考えて筆者は降参を決め、彼の答えを待った。 答えは「サンタクロースは煙突を上から入り、ユダヤ人は煙突を下から登る」というものだった。Aさんは大爆笑。筆者は未だピンとこなかったが、煙突の上にサンタ、下にユダヤ人が配置された場面を想像すると、ある光景が頭に浮かんだ。そう、アウシュビッツ強制収容所である。ここで、ユダヤ人は虐殺され、大量に焼かれて、焼却炉の煙突から煙が立ち上った。正直、笑うに笑えない筆者は、微妙な愛想笑いを返すしかなかった。 Bさんもひとしきり笑って満足したのか、「ごめん、ちょっとブラック過ぎたね」と謝ったが、それに続く彼の一言に軽い衝撃を受けた。それは、「日本には、広島・長崎や福島のジョークはないのかい?」という質問だった。すぐに出てくる答えは、「そんな不謹慎なジョークは、被害に遭われた方が可哀そうで言えるわけがない」というものだろう。私の祖父は長崎で原爆を経験しており、最近も直接被爆体験を聞いた。淡々とした語り口から悲惨な情景が紡がれるのを聞いて、この話から冗談一つ捻り出すことはできないと思った。 筆者はBさんの問いに対し咄嗟に、「そんなの、可哀そう……」と言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。手元にあったハイボールを気持ち多めに口に含み、いい答えが出るまでの時間稼ぎをしようとしたが、少し考えて彼を満足させる答えが見つからないとわかり、「どうだろう、文化の違いかもね」という禁じ手に逃げた。AさんもBさんも気にも留めずに次の話題を始めたが、可哀そう、の後に一瞬だけ動いた感情の正体をうまく言葉にできなかった。 たしかにユダヤ人たちの笑いはどぎついし、ユダヤ人でない筆者には口角を上げることすら憚られるが、民族の苦難を後世の若い世代が当事者として受け止め、努力して笑いに昇華しているのならば、それはそれでものすごい覚悟だなと感じた。もちろん、笑いに変えれば当事者になるという話ではない。 ただ、先祖が受けた被害に対する怒りや悲しみは、ユダヤ人も同じだ。欧州出身の先祖を持つイスラエル人はほぼ例外なく、親戚のうち誰かを迫害で失っている。また、イスラエルでは軍隊に入ると、エルサレムにあるホロコースト記念館でみっちり研修を受ける。無残に殺された先祖の写真を見ながら、国を持たない人間の末路はこうなると、徹底的に教わるのだ。 日本人の、可哀そうな相手に寄り添う態度は立派だが、相手のことを「可哀そうだ」と言った時点で、「自分は可哀そうではない」と言ったようにも聞こえる。あたかも自分には関係ないと決め込んで、遠くの安全な場所から見下ろしているかのように。不謹慎なことを言って相手を傷つけることより、不謹慎なことを言って自分が社会から制裁を受けることに怯えているのかもしれない。筆者にはユダヤ人の歴史の捉え方が正しいとも言えないが、いずれにせよ両民族間では、同じように悲しい民族的な経験をしていても、過去に対する向き合い方には違いがあることを痛感した。 以上、2つの国のジョークをご紹介した。上述の通り、文化の総合格闘技たるジョークから見えてくる各国の事情が浮き彫りになるのではと思ったからだ。実際、私自身もジョークを学んでから、より一層その社会に対する理解が深まったように感じることも多い。アネクドートやジョークを引用することで、その国や地域の奥底の部分を照らすことも可能だと思う。 しかし、その一方で、わかった気になることが、物事のより深い理解を阻害しているとも思うようになった。筆者もついつい、ジョークを紹介することで、その地域の通ぶることもしがちなのだが、当然、一人の人間のことを完全には理解できないように、その集団を正確に理解することは簡単ではない。 文化を学ぶことで、確かにその国のことを理解しやすくなるし、複雑怪奇な事象に一つの答えを出すことができる。答えがないことへの不安を抱える人類にとって、理解可能な答えを持つことは、刹那的でかりそめの安心をもたらすのである。しかし、そんな安心は、所詮は砂上の楼閣に過ぎず、実際は、とらえようがない現実が常に変化をする。私たちにできることは、目の前の建造物が堅牢ではないことを認め、時に自らそれを破壊しながらも、こぼれた砂をすくい続けることだけなのかもしれない。
住地ゴルフ社員/東京大学先端研創発戦略研究オープンラボ(ROLES)連携研究員 徳永勇樹