『ピアノ・レッスン』は民族の複雑な感情を描く デンゼル・ワシントン一家が連帯した意味
サミュエル・L・ジャクソンの内側に存在する民族的な“怒り”
なぜボーイ・ウィリーは、そんな貴重なピアノを売ろうとするのか。それは、安く売りに出されている農場を買う好機がめぐってきたからだ。自分の財産とピアノの代金と引き換えることで、念願の農地が一家のものとなる。これまでチャールズ家の人々は、奴隷主、雇い主の農地を耕し、搾取されてきた。しかし、自分たちの農地さえあれば、そんな不平等なシステムから脱して家を豊かにすることができるのだ。 だから、一家の“魂”、父親の“命”を売りに出そうとするボーイ・ウィリーの行動を、本作はことさら悪く描こうとはしていない。そのような家族の因習から解き放たれ、新しい時代を生きるという、彼の生き方もまた、一つの道なのである。そしてこれは、彼だけの問題ではなく、多くのアフリカ系アメリカ人が歴史的に体験してきた心理だともいえるだろう。つまり、現実の社会に順応する上で、自分たちの歴史を一時封印せざるを得ない局面というのが、実際にあるということだ。 その意味において、本作におけるピアノは、アフリカ系アメリカ人全体の歴史の“象徴”になっているといえる。それは“忘れてしまいたい記憶”であると同時に、“忘れてはならない記憶”でもあるのだ。ボーイ・チャールズの兄弟であり、ボーイ・ウィリーの叔父であるドーカーを演じたサミュエル・L・ジャクソンは、自分の役柄が「囚人農場」で長年の間不当に働かせられた境遇について、「それが“あいつら”のやり方なんだ」、「現在も本質は何も変わっていない」と、怒りを滲ませ語っている。 サミュエル・L・ジャクソンは、アメリカの「白人社会」のなかで、俳優として成功を収めてきた人物だ。しかし、やはりその内には、民族的な“怒り”が当然存在している。それでも彼は、アメリカ社会で生き抜くために、いまもさまざまな差別が残る環境やシステムに順応しながら活動をしていかざるを得ないのだ。奴隷として扱われてきた歴史を持つアフリカ系アメリカ人の心のなかには、あのピアノが象徴しているものが、いつまでも存在しているのである。 ピアノにサターの亡霊が取り憑いているという本作の設定には、奴隷制が廃止された後にも、白人の支配が継続されていた状況が投影されていると考えられる。ボーイ・ウィリーやバーニースらは、そんな亡霊の脅威にさらされることになる。だがバーニースの必死の祈りは、やはりピアノに込められたチャールズ家の人々の霊を連帯させ、白人の支配を遠ざけることに成功するのである。 あるときは、自分たちの歴史が重い責務となり、またあるときは、自分たちのルーツが力と誇りを与えてくれる……。それは黒人だけでなく、歴史的な悲劇を経験してきた民族が共通して持っている感覚なのではないだろうか。劇作家オーガスト・ウィルソンは、そんな民族の複雑な感情を、ピアノという物体を取り巻くドラマによって、見事に描き出したといえるのだ。そして、本作の俳優たちの演じる激しい言い争いは、その思いを熱く表現しているといえる。その構図を思えば、デンゼル・ワシントンの家族が連帯し、本作にかかわっていることの意味もあぶり出されてくるはずである。
小野寺系(k.onodera)