【文学のスペシャリストが教える】次々と肉親が亡くなり、残る祖父の“下の世話”までしていた「文豪」とは?
正気じゃないけれど……奥深い文豪たちの生き様。42人の文豪が教えてくれる“究極の人間論”。芥川龍之介、夏目漱石、太宰治、川端康成、三島由紀夫、与謝野晶子……誰もが知る文豪だけど、その作品を教科書以外で読んだことがある人は、意外と少ないかもしれない。「あ、夏目漱石ね」なんて、読んだことがあるふりをしながらも、実は読んだことがないし、ざっくりとしたあらすじさえ語れない。そんな人に向けて、文芸評論に人生を捧げてきた「文豪」のスペシャリストが贈る、文学が一気に身近になる書『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)。【性】【病気】【お金】【酒】【戦争】【死】をテーマに、文豪たちの知られざる“驚きの素顔”がわかる。文豪42人のヘンで、エロくて、ダメだから、奥深い“やたら刺激的な生き様”を一挙公開! ● 寝たきりの祖父を 若くしてずっと介護 川端康成(かわばた・やすなり 1899~1972年) 大阪生まれ。東京帝国大学国文学科卒。代表作は『伊豆の踊子』『雪国』『眠れる美女』など。虚弱体質で学校も休みがちだったが、幼いころから勉強ができて作文も得意だった。中学生のころから文学にのめり込むようになり、東大在学中の大正10(1921)年、文芸同人誌・第6次『新思潮』を発刊。菊池寛や横光利一などの文学者と交流を深める。20代から70代まで執筆活動を続けた作家であり、新人作家の発掘・育成にも貢献。昭和43(1968)年には日本人初となるノーベル文学賞を受賞するという快挙を成し遂げたが、そのおよそ3年半後の昭和47(1972)年、72歳にして突然、ガス自殺を遂げた。自ら命を絶った理由は、いまも謎のまま。 両親に続き、川端が7歳のときに祖母も亡くなってからは、祖父が亡くなる15歳まで、祖父と2人暮らしでした。 川端を育ててくれた祖父は次第に老いていき、目も見えなくなり、晩年は寝たきりだったといいます。 祖父が1人で動けなくなってから、川端はずっと介護をしていたのです。 ● 寝たきりの祖父の介護を 写実的に記録 そのころのことを短編実録小説『十六歳の日記』に綴っています。タイトルにある16歳は数え年で、満年齢で14歳のとき。寝たきりの祖父の病状を写実的に記録した日記を26歳のときに発表したのです。 この日記には、10代の川端が、学校から帰宅しては祖父の介護をする様子が詳細に綴られています。 祖父の“下の世話”をしていたことも記されており、当時の介護の大変さが、ひしひしと伝わってきます。 「これくらい私に嫌な仕事はない。私は食事をすませて、病人の蒲団を捲り、溲瓶で受ける。十分経っても出ぬ。どんなに腹の力がなくなっているかが知れる。この待つ間に、私は不平を言う。厭味を言う。自然に出るのだ。すると祖父は平あやまりに詫びられる。そして日々にやつれて行く、蒼白い死の影が宿る顔を見ると、私は自分が恥しくなる。やがて、『あ、痛たった、いたたった、ううん。』細く鋭い声なので、聞いている方でも肩が凝る。そのうちに、チンチンと清らかな音がする」 『十六歳の日記』(『伊豆の踊子・温泉宿 他四篇』岩波文庫に収録) ● 祖父が亡くなり 親戚に引きとられる 川端は祖父が亡くなると、母方の親戚である黒田家に引きとられました。 とても勉強ができる少年だったため、第一高等学校(現・東京大学教養学部)に進み、その後、東京帝国大学文学部国文学科を卒業。 やがて、文芸誌『新思潮』を通じて、作家としての道を歩み始めます。 ※本稿は、『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。
富岡幸一郎