勝海舟はなぜ姉小路公知を頼ったのか?朝廷内の実力者を説得した勝の熱意と、引き起こされた朔平門外の変
■ 勝による姉小路の変節 勝は、その実現のためには朝廷の理解も不可欠であることを十分に熟知しており、たまたま大坂にいた朝廷内の実力者であり、しかも即時攘夷派のリーダーでもある姉小路をして、少しでも軟化させ、場合によっては、よき理解者とすることが重要と考えた。そして、一か八かの説得を試みたのだ。 4月25日朝、勝は姉小路を訪問し、「摂海警衛之事を問はる。答云、海軍にあらざれば、本邦の警衛立がたし、云々。長談皆聞かる」(「海舟日記」)と、日記に記述した。勝は姉小路に対して、摂海警衛や海軍の必要性を存分に説いた。 即時攘夷に凝り固まっていた姉小路にとって、まさに青天の霹靂のような内容であった。しかし、聡明で柔軟性を併せ持つ姉小路は、そのような勝の意見に耳を傾け、大いに理解を示したのだ。両者の出会いは、まさに必然であったとも言えよう。 午後になり、姉小路は行動をともにする志士らとともに、幕府軍艦・順動丸に乗り込んだ。そして、勝とともに兵庫へ向かった。その船内でも、勝は海軍の必要性を訴え続け、志士と激論になったが大抵は説き伏せた。姉小路は、ますます勝の言説にはまり込んでいった。
■ 勝の感動と朔平門外の変 勝は日記に、姉小路公知との邂逅について、「嗚呼(ああ)我が邦家の御為に此説を主張するもの、殆七、八年、終に今日に到り、僅かに延ぶる処あるがごとし」と、その感動を率直に書いている。勝が、姉小路という同志を得たことを素直に喜び、いかに誇らしげに思っているかを、まさに目の当たりにしているようだ。 勝は、ほぼ7、8年にわたって海軍構想について主張し続けながら、うまく運んでいなかった。しかし本日、姉小路に短時間であったが説明したことで、実現しそうであると、その感激を記している。なお、姉小路について、この段階で初めて「攘夷の非を悟りて、是よりやや通商条約容認説に傾くに至」とあり、姉小路にとって勝との出会いが、即時攘夷から未来攘夷へと考えを変える転換点となったことは間違いない。 巡見終了後、姉小路は5月2日に帰京した。その後、暗殺に至るまでの姉小路の具体的な言動は明らかではない。しかし、その後の経緯や文献史料から、勝の言説を重視して、即時攘夷派から後退したであろうことは疑いない。また、勝の海軍構想が朝廷内にもある程度浸透し、理解が得られたのではなかろうか。 一方で、こうした姉小路の即時攘夷派からの脱落は、同派の危機感をあおった。その結果、5月20日の朔平門外の変(姉小路公知暗殺事件)に至る。勝との出会いが、結果として姉小路を未来攘夷に変節させ、そのことが朔平門外の変を引き起こしたのだ。 次回は、勝塾設置に至る経緯、神戸海軍操練所の実相と坂本龍馬の塾頭問題、さらには勝の失脚と操練所閉所の関りなどについて、詳しく見ていきたい。
町田 明広