取材記者が見たオスロでの被爆者 喜びと核兵器廃絶の道の険しさも実感したノーベル平和賞受賞【長崎発】
受賞の喜びを分かち合い、これからも訴え続ける
授賞式を現地で見守った被爆者もいる。 市民も含む100人と受賞の喜びを分かち合い、これからも核兵器廃絶に向けて訴え続けるとの思いを新たにしていた。 被爆者の三田村静子さんは、市民団体が市内の図書館の一室で開いたパブリックビューイングに参加。「若い世代への継承はもちろんだが、被爆者もまだまだ“核兵器は絶対にダメ”と、これからも訴え続ける」と話した。三田村さんは11月に亡くなった被爆者・小峰秀隆さんの紙芝居を携えて渡欧。「共に核兵器廃絶を訴え続けた仲間の分も」と意気込んでいた。 時折、涙を見せながら式を見届けた被爆者もいた。長崎で生後約6カ月のときに被爆した、神奈川県在住の福島富子さんだ。この日も「平和」の文字が入った帯を締めて参加していた。パブリックビューイングで授賞式を見届けて「感無量。背中を押された気がする」と、受賞の喜びを次につなげよう、との決意に満ちあふれていた。
オスロの街に核兵器廃絶を願う火が灯る
授賞式後の夜、市内では恒例のトーチパレードが行われた。 被爆者も市民も核兵器廃絶を願いながら、たいまつを片手に約800mを練り歩いた。 この日は冷え込みが強く、気温は氷点下6℃。それでも、通りを埋め尽くしたトーチの火は、参加者の心も温めたようだった。 被爆者の倉守照美さんは先輩達の写真パネルを携えて車椅子で参加。「一緒に参加しているような気がする」と、共にこの瞬間の喜びを噛み締めていた。 授賞式に出席した高校生平和大使4人の姿も。「日本ではこんなに集まらない」と、集まった人の数に驚きながら「世界には同じ思いの仲間がいる」と励まされたようだった。
オスロで被爆講話や若者との交流
授賞式の翌日は各地で関連行事が続いた。2歳のとき、長崎で被爆した医師の朝長万左男さん(81)はフォーラムに登壇。壇上には2023年に鬼籍に入った井黒キヨミさんを含む被爆者の顔写真が飾られていた。広島の被爆者・小倉桂子さんと共に講演し、朝長さんは「被爆による影響は生涯続くこと、核兵器廃絶は若い世代にも責任がある。核保有国、非保有国の枠を越えて連帯して欲しい、などと呼びかけた。講演後、会場からは拍手が鳴り止まなかった。 高校生平和大使などが現地の若者と交流するイベントも開かれた。長崎西高2年の大原悠佳さんは「小学校での平和教育を通して原爆の恐ろしさを知った。平和教育は重要」と語った。 日本被団協の代表団のうち、横山照子さんを含む3人は、オスロ市内の高校で生徒約300人を前に被爆体験を語った。 横山さんの妹は、爆心地から約4km離れた自宅で被爆した。 ほとんどを病床で過ごした妹・律子さんの写真を手に「体や心や希望を失わせる原爆は地球上に一発もいらない。妹は44歳で亡くなったけど妹の死を通して、原爆の被害はあのときだけではなく、人間の一生をだめにするんだと皆さんに知っていただきたい」と、力を込めて訴えた。 話を聞いた現地の学生は「被爆者個人の話を聞いたのは初めてだった。核兵器が被爆者にどれほどの影響を与えるのか理解した」と話し、交流の時間が終わっても会場に残って被爆者に声を掛け、核兵器廃絶への思いを共有していた。
「私たち被爆者は命がある限り頑張れよ」という励みに
代表団は現地時間の12日早朝にノルウェーを発った。 帰国の途に着く前、代表委員の田中重光さんは5日間を振り返り「私たち被爆者は命がある限り頑張れよ、という一つの励みになったと思っている。帰ってからいろんなことが待ち受けているが、健康に気を付けながら頑張っていきたい」と語った。 (テレビ長崎)
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