強烈な揺れと津波に襲われた能登半島最先端、震源近くの町は今どうなった? 深刻な人口減少、高齢化…「それでも」住民は力強く語った
▽「全壊のほうが諦めが付く」 宝立町から少し離れた蛸島町の橋本忠雄さん(63)の自宅は、地震の揺れと液状化現象で傾いていた。元日から車中泊や妻の実家などでの避難生活を続ける。この日、人けが少ない被災地を狙った空き巣対策としてエアコンを取り外し、室外機を車に積んでいるところだった。 自宅の中に案内してくれた。畳が浮き上がったり、水平であるはずの梁が斜めに傾いたりしていた。家財道具は散乱し、障子は破れていた。2階の一室には、本棚から飛び出した本が床一面に広がっていた。「全部正月のままや」。こたつの上にはミカンの皮が残っていた。 全壊は免れたが「住める状態じゃない」と判断し自宅は取り壊すことにした。「倒壊してくれたほうが諦めが付く」と苦笑いする。「新しい家を建てたいけど(ローンを)借りられる年齢じゃない。どうしたらいいんかな」と疲れた様子で話した。 ▽去るか、とどまるか 「奥能登」と呼ばれる能登半島の最北部の地域では、人口減少や高齢化が長年の課題だった。
珠洲市もその中の一つ。市が公表している資料によると、平成初期に約2万5千人だった人口は、近年は1万3千人前後まで落ち込んだ。総務省が昨年7月に公表した、住民基本台帳に基づく人口動態調査によると、珠洲市の65歳以上の人口は全体の51%を占めた。 元の生活にいつ戻れるのか、復興の見通しは立たず、人口の減少や流出がさらに進むとの懸念も出ている。 一方で住み慣れた土地への愛着や、古里を離れることへの抵抗感を語る住民も多い。飯田町の多間俊太郎さん(73)は、伝統工芸品「珠洲焼」の職人だ。完成品を保管していた倉庫は地震や津波で一部がゆがむなどの被害は出たものの、倒壊は免れた。 多間さんは倉庫の整理をちょうど終えたところだった。「作品はたくさん割れてしまったが、倉庫が残ってほっとした」と話す。これからも珠洲焼を作り続けるつもりという。 近所では小学生時代からの友人が自宅の下敷きとなり亡くなった。「みんなどこかに避難し、誰もいなくなった」。寂しそうにつぶやいた。倉庫の周りもがれきや砂がそのまま残る。
それでも「そのままふさぎ込んどったって(町は)直りはせん」と力強く語る。地元を離れるつもりはない。「なぜ残るのか」とあえて尋ねると、笑顔でこう答えた。「ここが好きやから。人の付き合いが好き。残った人たちで何とかしたいね」