広島電鉄、11年前の社長解任劇 社内では一体何が… 椋田昌夫会長に真相聞く
広島電鉄(広島市中区)の取締役会は2013年1月、当時の社長を解任した。電車事業の監督官庁である国土交通省出身者を辞めさせた前代未聞の出来事だった。一連の動きを主導し、新社長に就いたのは椋田昌夫氏(77)。今年6月、会長になったのを機に、当時は明らかにしなかった背景や思いを語った。 【写真】広島電鉄本社 ―解任を振り返ってどう感じますか。 あれをやっていなかったら、うちはつぶれている。いい年をしてあんなこと、やりたくはなかった。経営が代わったことで、新型コロナウイルス禍を乗り切る態勢をつくれたという自負はある。 ―どうして解任に至ったのですか。 財界や取引先のクレームが非常に多かった。人の話を聞かない、進んでいた話を平気でひっくり返すと。広島市からは「意見は文書にして社印を押して来い」と担当者が言われたほどだ。 課長や係長に直接指示を出し、組織を混乱させた。困った社員は保身のため社長と話す時にICレコーダーをしのばせた。社内の信頼が崩れていた。前の社長の大田哲哉さんが11年11月に亡くなると歯止めが利かなくなった。体調を崩す社員も出た。私は本人に「誰も付いてこなくなるよ」と最低3度は助言した。 運賃引き上げやJR広島駅に新線を乗り入れる計画でも、独断的な動きが目立っていた。 ―国交省との関係は悪くなりませんでしたか。 勇気が要りましたよ。それだけ追い詰められていた。決断したのは事を起こす1年前。念入りに証拠を固め、12年11月に国交省の偉い人に相談した。「うわさは聞く。こちらも調べてみる」と言ってくれた。 12月に入って「あなたの言うことに間違いない」と返事をもらった。しかし衆院選と政権交代があり、少し時間がかかった。年末に「準備ができた」と連絡が来たので、社内の総務や営業関係の8人ぐらいに対応を指示した。取締役会のメンバーにはぎりぎりまで言わなかった。株主には相談していない。 13年1月4日、役員の仕事始めの席で切り出した。社長はすごくびっくりしていた。その場で解任の議決を求める声も出たが、不意打ちはせず、解任は8日の取締役会。この日は2時間待ったが社長は現れなかった。 ―代わって社長になり翌日の記者会見で「私は中継ぎ」と言いながら、11年半も続けました。 若い人が育つまでという気持ちだった。ただ年齢も経験も一番上で自分が方向転換しようと腹を決めた。その後に西日本豪雨やコロナ禍があった。中途半端はいけないと思っていたら、11年が過ぎた。一生懸命に走り抜けた感じだ。 私はトップは好きでない。ナンバー2の参謀タイプ。実は大田さんから大田さんの次の社長を打診され、断った経緯がある。だからトラブルの責任も感じていた。 ―社長としてどんなことに力を入れましたか。 就任後に社員に伝えたのは、このまま会社が存続すると思ってはいけないということ。地方の公共交通は人口減で間違いなく行き詰まる。今までのやり方では駄目だと。 働きやすく、風通しのよい会社にして挑戦する人を増やすことを目指した。最初の1年で全社員と3回は意見交換し、欧州視察を始めた。社内に保育施設を設け、短時間労働の正社員制度もつくった。人の嫌がることをしない、部下を抑え付けない、これが私の企業統治の姿勢だ。よくみんな付いてきてくれた。
中国新聞社