甲子園「完全試合男」松本稔が高校時代から感じていたスパルタ指導の限界「もっと面白く、効率よく」を指導者として実践
センバツ完全試合投手・松本稔 インタビュー 中編(全3回) 【完全試合で1000通のファンレター】 【写真】甲子園史上初の完全試合を達成!松本稔さん・今昔フォトギャラリー 1978年センバツの高校野球史に残る甲子園初の「完全試合」。群馬・前橋高(通称・マエタカ)のその後について少しだけ触れておくと、3日後に福井商と2回戦を戦い、1回戦で見せた鉄壁の守りが崩れ0-14で敗退する。 エース・松本稔の投球数は完全試合を達成した初戦の倍になる142球を数え、17本のヒットを浴びる予想外の結果だったが、四死球は与えず自責点は4。何よりエラーの連鎖を断ち切れなったことが悔やまれた。 「甲子園で天国と地獄を味わった」と報じられた前橋の選手たち。しかし、このままでは終わらなかった。直後の群馬県大会で準優勝し、春の関東大会にコマを進めてここでも準優勝している。 「これなら甲子園はまぐれだなんて誰も言わないよね」と、松本も肩の荷が下りた気分だったという。しかも、試合会場では大勢のファンに囲まれ大人気。ファンレターも連日のように学校に届き、その数約1000通だったそうである。 「関東大会では『また勝っちゃった』というのがみんなの本音。準優勝に一番驚いていたのは自分たちで、実力のほどはわかっていたから、夏の甲子園にまた行こうだなんて思っていたヤツはいなかったんじゃないのかな(笑)。 ところが試合後、監督やOBからなんで勝てなかったんだとめちゃくちゃ怒られたんです。ただの一発屋と思われるのはしゃくだからみんなとりあえず頑張ったのに、どうして怒鳴られなくちゃいけないのか。あの時は、そんな複雑な気持ちも強かったですね」
【感じていたスパルタ指導の限界】 間もなくして迎えた、夏の県大会。数カ月前まで期待感ゼロだったチームがスタンドからの大声援にあと押しされ、松本はこれまでと変わらずひとりで投げ続けた。そして、最後は決勝進出を目前に、ベスト4で散った。 「プロ野球でも高校野球でも神社へ行ってよく必勝祈願をするでしょう。頼れるのは自分の腕しかないって誰もがわかっているのになんでだろうと、つい冷めた目で見てしまう。指導についても根拠のないところに帰属させるような風潮って、スポーツ界にまだまだあるのが不思議です」 松本が高校生だった時、薄々感じていたことがある。それは「スパルタ指導の限界」だった。長時間練習が当たり前で、根性や忍耐といった精神論で選手を鍛える指導者も多かった当時の高校野球。野球界はこれでいいのかと、少なからずの疑問を抱いていた。 「自分の性格が影響していると思うんですが、もっと面白く、効率よく練習したいという気持ちがいつも心の内にありました。高校野球は教育という側面が強調されやすいけど、それが前面に出てしまうと窮屈になる。 あとになって思ったのは、もっとスポーツとして高いレベルで野球をとらえるべきではないかということ。筑波大に進学した当時は、まだ科学的に野球を分析できるほどの環境にはなっていませんでしたが、進んだ大学院ではスポーツ心理学やバイオメカニクスによる研究も進み、ここで多くを学びました。のちの指導のエビデンスになっています」