伊達政宗を支えた最強のNo.2…、ロバート山本が伝えたい、戦国武将3選【まとめ】
2.ロバート山本、生き様がカッコ良すぎる武将=鳥居強右衛門とは
「鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が活躍したのは、3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った『長篠の戦い』です。織田軍が鉄砲の三段撃ちを行ったとされることで有名な戦ですが、彼は家康に仕えた奥平家の足軽のひとり。かなりの歴史好きなら知っているかもしれませんが、一般的にはほとんど知られていない人物だと思います」 鳥居強右衛門が仕えた奥平家は、今川氏や織田氏、松平氏(後の徳川氏)、武田氏と転々と所属先を変えてきた一族。長篠の戦いの前には、武田方から徳川方に寝返っており、それが武田勝頼の怒りを買っていた。 そして奥平家は長篠城の守備を家康から託されるが、500名程度の城兵しかいない状態で、武田の1万5千人の軍勢に包囲されてしまう。 「長篠城は武田と徳川の戦いの最前線。ここを取った側が優位に立てる超重要な場所です。武田側は城に使者を出して、『諦めて寝返れ』と伝えてきたそうですが、城を任されていた奥平貞昌(さだまさ)は裏切ることなく、家康のいる岡崎城に援軍を要請することになります。でも、城の周りは包囲されていて抜け出すなんて不可能だし、命が何個あっても足りないと誰もが思っていた。その時、伝令を志願したのが鳥居強右衛門だったんです」
3.伊達政宗を支え続けた最強のNo.2、片倉景綱
「片倉景綱(かたくらかげつな)は伊達政宗より10歳ほど年上で、子供の頃からその教育係となり、軍事、外交、内政などあらゆる面で政宗を支えた人物です。伊達政宗は破天荒で大胆なエピソードが多い人物ですが、それを裏で上手く収めていたのが景綱なんです」 そんな景綱の政宗への忠義を物語る、以下の逸話が山本さんは特に好きだそう。 「豊臣秀吉や徳川家康が一目置く“豪気の人”であった政宗ですが、実は小さな頃は病気がちだったといいます。ある時、政宗の脇腹に出来物ができてしまい、痛くて夜も眠れない時期が続いた。政宗は自分でそれを切り取りたかったんですが、当時の武将にとって腹の傷は切腹を連想させるため不名誉なことで、『病気を苦に切腹したと思われるのは嫌だ』と景綱に相談したそうです」 それを聞いた景綱は、真っ赤に熱した金属の棒を持ってきて自分の太ももに突き刺し、命に別状がないことを自分自身で確かめてから、それを政宗の腹に刺して出来物を焼き切った。 「政宗の腹の傷は1ヵ月程度で治ったそうですが、景綱の足の傷は3ヵ月治らず、さらに後遺症として引き攣(つ)れが残ってしまったといいます。自分を犠牲にしてでも、主君である幼い政宗を勇気づけるその姿、まさに“忠義の士”ですね」