戦犯たちの「必死の思い」遺書をまとめたのは26人の仲間を見送った元死刑囚~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#70
数万枚の資料を原稿用紙2800枚に
世紀の遺書の外箱には、静かな黎明の遠山の姿が描かれている。東山魁夷画伯の手によるものだ。表紙の一面は獄舎を象徴する縞模様で、一面は永遠の自由と平和の昇天とを意味する白鳩三羽が飛翔する。見返しは山桜の華麗な図で、こちらは中村岳陵画伯が日展前の貴重な時間を割いて協力したと編集余録に書かれていた。 (「世紀の遺書」編集後記) 編纂の方針としては何等特定の色彩方向をもたず、どこまでも個々の意志に忠実を旨とした。この方針より資料の整理選択は(一)誤字脱字は訂正する。(二)意味明瞭な造語、当て字や仮名づかいの不統一等で差支えないものはなるべくそのままとする。(三)紙数多き遺稿はなるべく最期に近いものの中より遺志の最も明確な部分を選ぶ、等によって行った。斯くして数万枚の資料を蒐集整理して原稿用紙約二八00枚に纏めたのであるが、これ迄に一年余を費やしたのであった。この間最善をつくしたつもりであるが力の及ばなかった点は深くお詫びしたい。 当初の計画ではこれを謄写印刷により遺族始め図書館その他主要なる公共機関に配布の予定であったが、この書の重要性に鑑み、又内外からの要望もあって出来得れば活版印刷にすべく腐心していた処、予てより戦犯遺族のため献身的努力を注いで来られた、中村勝五郎氏同正行氏父子が此書の国家的意義に同感され、単なる後援にとどまらず刊行をめぐる諸般の問題につき東奔西走して下さったのであった。また同氏と親交ある信行社社長河野氏は利害をすてて印刷を引請けられ、日本芸術員会員、中村岳陵画伯、及び同審査員東山魁夷画伯よりそれぞれ精魂こめた装幀及び外装を頂戴し、更に戦犯者の父と仰ぐ田嶋隆純先生より巻頭のことばが寄せられた。斯くして永遠の書に相応しい豪華本として世に送られることとなったのである。 〈写真:「世紀の遺書」見返し〉
念願が正しい限り必ず道は通ずる
千葉県市川市の名誉市民となっている故・中村勝五郎氏(正行氏)は、元味噌醸造所の代表で、父・2代目勝五郎とともに、戦後の混乱期に私財を投じて若手芸術家の育成や美術界の興隆に力を尽くした。 「世紀の遺書」の刊行が全く行き詰まった時に、田嶋隆純教誨師が最後の手段として、中村勝五郎氏を訪ねて窮状を訴えたところ、全面的支援を快諾した。中村親子の縁から二人の画伯にも協力を得ることができたという。 (「世紀の遺書」編集後記) 思えば当初は謄写配布の資金の目途さえなかったにもかかわらず、我々の念願が正しい限り必ず道は通ずるとの信念から、遺族にも印刷配布を約して編纂に着手したのであった。途中幾度か道は絶えんとしたが、遂に夢想だにしなかった立派な形で我々の念願で実を結ぶに至り、誠に感慨に耐えないものがある。定めて海彼にねむる霊も感泣していることであろう。 〈写真:中村勝五郎氏(市川市HPより)〉 「世紀の遺書」は、四版を重ねたあと、発刊から31年後の1984年に講談社より復刻されたー。 (エピソード71に続く) *本エピソードは第70話です。