【パリ五輪】やり投金の北口榛花「多くの人に理解されることではない…」信じ、貫いた姿勢・身体作り
◇パリ五輪・陸上競技(8月1日~11日/フランス・パリ)10日目 パリ五輪・陸上競技の10日目のイブニングセッションで行われた女子やり投で、北口榛花(JAL)が65m80をマークして金メダルを獲得した。今大会、陸上競技で初のメダルをもたらしたこの金メダルは、日本女子トラック&フィールド初の快挙。陸上競技の金メダルは2004年アテネ五輪(男子ハンマー投・室伏広治/女子マラソン・野口みずき)以来となる。昨年のブダペスト世界選手権を制しており、真の世界一となった。 【写真】北口が貫いた姿勢・身体作り 世界一になるまで、さまざまな苦悩があった。記者会見で自身の取り組みについて「正直、あまり多くの人に理解されることではない」と言う。 その取り組みこと、これまで北口が何度も口にしている『解剖学的立位肢位』を元にした姿勢、身体作り。『解剖学的立位肢位』とは、頭からつり下げられた人体骨格模型のイメージで、「人間本来の動きができる」姿勢と言われている。日常はもちろん、トレーニングについて、この姿勢、「人間のルール」から外れないように常に意識している。 こうした取り組みに向かう背景にはケガがあった。北口はこれまで2度、大きなケガをしている。一度目は日大1年時の2016年。前年にU18の世界選手権(世界ユース選手権)で日本女子初の金メダルを獲得していた北口は、大学入学早々に61m38のU20日本新を樹立した。近づいたリオ五輪を目指すなか、「力任せな投げ」をして右肘を痛めてしまう。結果、五輪には届かず、大きな目標としていた7月のU20世界選手権も8位にとどまった。 翌年4月まで試合に出場せず治療に専念。復帰後は右肘の違和感や怖さから常にサポーターを巻き、痛みが取れても違和感は拭えなかった。そこで2017年に車いすフェンシングの選手の紹介で向かったのが東京・豊島区にある治療院「SSSA(スリーエスエー)」だった。 当時を知るトレーナーは「最初は男の子が来ると思っていたら女の子だった。『やっと出会えた』と思った規格外の身体でした。ただ、猫背で姿勢は悪かった」と言う。実際に、姿勢に関する論文を足立氏やSSSAと共同で執筆している東京有明医療大の小山浩司・准教授が測定すると「一般の人よりも猫背でした」。ただ、「にもかかわらず、トップアスリートと同様に重心が前にある。これは初めての例でした」と言う。 訪れた時に最初に言われたのは「腹筋はしなくていいよ」という言葉。「苦手な腹筋をやらなくていいんだ! て喜びました」と北口は当時のことを笑って振り返る。 SSSAの治療で身体は変わってきたものの、なかなか肘の違和感が消えず。治療をしてもまた歪んでしまう。これは北口に限らず、一般の顧客に対しても持っていた悩みだったという。そこでトレーナーたちがツテを頼りに頼ってたどり着いたのが、『解剖学』だった。当時、筑波大准教授だった足立和隆氏の話を聞き「これだ!」とトレーナーたちは涙を流したという。 足立氏は『解剖学的立位肢位』についてこう説明する。 「足の幅は骨盤の中に収め、骨盤を前傾させる。手のひらを前方に見せ上肢を外側に回すことで胸を開き、猫背が解消される。横から見ると、まっすぐに見えるが『時計の針の1分』だけ身体が前傾する。これが『人間本来の動きができる』姿勢です」 足立氏いわく「日本人は生活習慣などが原因となって猫背で後傾気味」であると説明。「解剖学的立位肢位は、四つ足から二本足の直立に進化した人類にとって、基本となる姿勢であり、筋肉もその姿勢を起点として効率よく働くようにできているので、ケガのリスクが減り、トレーニング効果も上がる」と説明する。いわゆる“腹筋動作”をしないのは、伸縮させることで背中が丸まってしまうから。SSSAは、これまで経験則でやっていたことの確認ができ、それからは足立氏にアドバイスをもらいながら、解剖学を元に治療を進める方針を固めた。 北口が「トレーニングに結びつけるよりも、日常生活から意識するほうが大変でした」と言うように、日常生活からどうやって解剖学的立位肢位を意識するか。そうして、今でも北口が使っている傾斜のついた椅子や、胸を開くために背中に挟み込むボードなど、次々と“アイテム”を考案していく。 2018年度末にチェコに渡った北口は、帰国後の19年に64m00の日本新。「トレーナーさんたちが、チェコのディヴィッド(セケラック)の練習と姿勢をつないでくれた」(北口)。こうした取り組みがより本格化したのが2021年の東京五輪のケガだった。予選をしっかり通過したものの、その際に左脇腹を痛めた。重度の肉離れだった。以降はそれまで以上に解剖学への理解度を北口も高めていく。 足立氏いわく、「今は解剖学のことをかなり理解している」と北口に舌を巻く。18年から担当する上野真由美トレーナーは「身体についてすごく敏感で、少し外れただけで気になるようです」と、その身体のセンサーに驚く。今年はウエイトトレーニングの過多により「身体が動かない時期があった」と言うが、その際も「何も持ちたくない」と北口。身体を診ていくと手のひらの親指側と小指側が近づいているようだった。手を開く治療を施すと、すぐに改善。そうした感覚を持ち合わせている。 傾いた椅子に座った姿勢作りなど、傍から見れば「何をやっているんだろう」という取り組み。姿勢や骨盤の前傾など、なかなか理解されないことも多かった。トレーニング内容と姿勢作りのギャップに、セケラック・コーチと意見が衝突したこともあった。それでもこの日、オフィシャルメディアのインタビューで「トレーナーのチームに感謝したい。彼らのサポートがなければ今日の金メダルはなかった」と感謝。そして、堂々とこう話した。 「信じてこられたからこそ、今日このような結果が得られたと思います。これからも私の意思を変えずにやっていけたらと思っています」 誰に理解されなくとも、自ら信じた道を進み、究めてきた。日本陸上界にもたらしたパリ五輪の特大の金メダルの裏には、池袋にある老若男女が訪れる小さな小さな治療院をはじめとする“もう一つのチーム北口”の情熱があった。
向永拓史/月陸編集部