策に溺れる? 軍師・陳宮は、なぜ呂布に信用されなかったのか
193年、曹操は徐州(じょしゅう)に攻め込んだ。いわゆる「徐州虐殺」。歴史書(武帝紀や後漢書)には数十万人の領民、あるいは多数の者を殺めたとある。曹操の言い分は、徐州の統治者・陶謙(とうけん)の部下に父や弟らを殺された報復というもの。続いて翌194年にも曹操は徐州を攻めたが、陶謙は意外に手ごわく、攻め取るにはいたらなかった。 曹操がこの徐州攻めで留守の間、その隙を突いた者がいた。曹操の部下・陳宮(ちんきゅう)である。陳留太守の張邈(ちょうばく)、その弟の張超(ちょうちょう)などに働きかけ、さらには呂布(りょふ)を旗頭に立て、兗州(えんしゅう)を奪おうとしたのである。 当時、呂布は都落ちしていたが、董卓(とうたく)を討った猛将として名声抜群。騎兵の統率に長け、超人的武勇の持ち主。彼に自分が知恵を貸せば、曹操を倒せる・・・。そうした打算からか、陳宮は軍師・参謀的なポジションで呂布を支えることとなる。 ■なぜ、曹操を裏切った? なぜ陳宮は、曹操に謀反を起こしたのか。『三国志演義』では、曹操が恩人の呂伯奢(りょはくしゃ)を殺害したとき、行動をともにしていた陳宮は、その非道ぶりを嘆くことが伏線になっている。しかし、「呂伯奢事件」は史実かどうか不明。そもそも、それに陳宮が立ち会ったという記述はない。一緒にいたのは「演義」の創作である。 そのため、この謀反には唐突感が否めない。ただ「陳宮は(曹操に)若い時から付き従っていた」と記されてはいるから、呂伯奢の一件と似たようなことはあったのかもしれない。その結果、「徐州虐殺」が決め手となり、陳宮はついにトリガーを引いたということになろうか。加担した張邈兄弟のように、曹操に反感を抱く者は少なくなかったのも確かだ。 さて、謀反された曹操は大いに狼狽。しかし留守を預かった程昱(ていいく)や夏侯惇(かこうとん)らが奮戦、かろうじて三拠点は死守する。兗州に戻った曹操は反撃に転じるも、呂布軍の攻勢に苦しみ、自身も落馬して火傷を負うなど苦戦を強いられた。だが、その後の定陶の戦いで曹操軍は呂布軍を伏兵で打ち破り、どうにか兗州を守り切る。陳宮の反乱は失敗に終わった。 ■呂布に徐州を取らせるが、第二の謀反も失敗 曹操を苦しめるも、敗北した呂布と陳宮は195年、徐州の支配者となっていた劉備を頼る。当初こそ手を組んで曹操に対抗しようとしたが、呂布は劉備が遠征した隙に下邳(かひ)城を奪い、徐州を乗っ取った。曹操がいない間に兗州を奪おうとした手口と同じで、これも陳宮の策によるものだろう。 再び曹操への対策を練る陳宮は、翌196年にまたも謀反を画策した。呂布の配下・郝萌(かくぼう)をけしかけ、彼に呂布を討たせようとしたのである。ある夜半、寝所に裸でいた呂布だが、素早く逃げて事なきを得る。郝萌は高順(こうじゅん)に討たれ、陳宮が共謀者であることが明らかになった。かくして謀反は失敗したが、呂布は陳宮を赦(ゆる)した。 『英雄記』に記される、この陳宮の謀反劇と呂布の対応はどこか不自然さも感じる。しかし、案の定というべきか、呂布はこれに前後して陳宮の進言に耳を貸さなくなっていく。もともと呂布は自分に対して直言する者を嫌ったようで、高順もそのタイプだった。高順は有能な将だったが、呂布からは冷遇され続けている。