「人によって態度を変えるな」という説教が罪作りな理由 ヒトはいつ「歪み」を抱えるのか
「みんなと同じでなくていい」
近年、多様性(ダイバーシティ)という言葉をよく聞きます。概して、さまざまな特性や特徴をもった人々の存在を指しますが、その言葉が使われる際には、多様性を尊重することが前提にあると思われます。そのこと自体はなにも問題はないのですが、それを“みんなと同じでなくていい”といった解釈をされる方々もおられます。そこからさらに進んで、勉強が苦手な子や、その保護者に対して、「みんなと同じように勉強できなくてもいい」、さらに「勉強が苦手なのも個性」だとアドバイスする方もおられます。これも無責任な言葉かけに感じます。 できないことを受け入れるのは周囲の大人でなく子どもたち本人です。勉強が苦手な子に「みんなと同じでなくていい」と声をかけるとしたら、そして保護者にも「様子をみましょう」と説明するとしたら、いったいどのような根拠があるのかが気になるところです。 現在、私は某市で教育相談を行っていますが、母子で相談に来た境界知能(IQがおおむね70~84)の、ある小学校高学年の男の子は、とても勉強が苦手でした。相談の中でその子は私に「僕は馬鹿なのかもしれない。弟からも馬鹿だと言われて、どっちが兄か分からない」と言いました。彼によると三つ年下の弟の方が賢いそうです。そんな子に対して「様子をみましょう」という言葉をかけるだけだとしたら、場合によっては、その子のもつしんどさに寄り添うことを先延ばしにしているわけで、むしろ支援者側に問題があるかもしれません。 個人的には“賢くなりたくない子はいない”と思っています。そして、やってみる前から“できないこと”を多様性と見なしてしまうことには危機感を覚えます。 さまざまな手を尽くしても勉強がどうしてもできない子には“させてはいけない努力”もあるとは思います。しかし、もし分かりやすい勉強方法などをまだ十分に試していない段階で、「みんなと同じでなくていい」といった無責任な声を子どもにかけるとしたら、声をかけた人はその子の力を十分に引き出せないばかりか可能性を潰してしまっているかもしれません。その場合、何よりも被害者は子どもです。 「子どもには好きなように生きさせるべきだ」といった言葉かけもある意味、無責任と感じます。たいていの子どもにとって勉強は辛いもので、したくないものです。子どもは勉強をしなくてもいい口実を与えられると、しない方に傾く可能性があります。そこで、もし好きにしていいと言われてゲームやスマホばかりして易きに流れてしまった場合、いったい誰が責任を取れるのでしょうか。最低限、選択肢の幅を最初から大人が狭めないように寄り添い、本人の好きなように生きさせるのはそれからでも問題はないはずです。