釣り具を修理していたら遅れて… 日航ジャンボ機墜落 搭乗をキャンセル、“死神から逃れた”5人が「その後の人生」を語った
「助けられた命」
何も知らないまま、駐車場に停めておいた車で、大阪・寝屋川市の自宅に向かった。だが、その頃、近所では大騒動になっていた。 「その日、踊りのお稽古を公民館でやっていたんです。“主人が乗っているかもしれない”と話すと、“踊っている場合やない”と言われて。みんなとうちに引きあげてきて、近所の人に空港に送ってもらおうかと相談していたんです」(夫人) そこに当の大西が帰還。 「近所の7、8人が拍手喝采で迎えてくれるんです。“ワー、帰ってきはった”と。何事やと思ってね。そしたら飛行機落ちたと。振り返ると、ほんまに紙一重のところをくぐり抜けてきたなと。もし釣り竿の修理をしてなかったら、あるいはもっと強くクレームをねじこんで、万が一、席が取れていたらと思うとね」 こう話したあと、大西は「そういえば……」と、あることを語り始めた。 それは日航機墜落事故から1年後の7月のこと。三重県で釣りをした帰り、後輩が運転する車が奈良県の山中で交通事故を起こし、助手席で寝ていた大西は重い脳挫傷を負って、意識不明の重体になった。一時は、「植物状態になることも覚悟してほしい」と言われるほどだった。 担ぎ込まれた山あいの病院には普段、脳外科の専門医は常駐していないのだが、その日は偶然専門医が当直していた。その医師の点滴治療が著効を示し、奇跡的な回復を果たすことができたという。 「私の意識が戻らないとき、知人の紹介で家内が奈良の真言密教の寺にお参りにいったんです。そこで住職に、“ご主人の足を誰かが引っ張っているから大丈夫”と言われたと。信心深いほうではないけど、妙に説得力があってね。だから助けられた命なんですよ」
「ついてないなあ」
その大西の2人後ろ、空席待ち整理番号7番を持っていたと思われるのが、神田敏晶(53)である。ITジャーナリストの彼は、事故当時はワイン・マーケティング会社の社員だった。 「社会人になって初めてのボーナスをもらったので、少し奮発して飛行機で帰省しようと思ったんです」 当時の新幹線は東京―新大阪間が1万2100円(自由席)なのに対し、飛行機は羽田―伊丹間1万5600円と3500円割高だった。 しかし思い立ったはいいが、チケットさえ取っておらず、空港に着いた当日16時前後は、JAL17時発、ANA18時発、JAL18時発はすべて満席だった。 学生時代はバックパックで世界中を旅していたので、3便もキャンセルを待てば乗れると高をくくっていた。しかし全滅。 「ついてないなあと思いましたね。計画性のない自分を呪うというか」 下調べしていなかったからか、18時発が最終便だと勘違いしていた。それで東京駅へとって返し、新幹線で帰郷した。当時は新幹線車内に文字ニュースが流れるサービスはない。日航機事故を知ったのは、友人と夜通し飲んだ翌日昼、二日酔いの状態でテレビを見たときだった。 「ショックで、ずっとテレビを見ていました。母が“よかったなあ”と言っていたのを覚えています」 不思議なことに神田は、その後何度か大きな災害や事件に巻き込まれたりしながらも、事なきを得てきた。 平成6年(1994)の米ロサンゼルスで起きたノースリッジ地震のときは、フリーウェイが落ちるほんの30分前にそこを走行していた。その翌年の阪神淡路大震災のときは神戸市におり、自宅は半壊したが命からがら逃げ出した。 さらに平成13年、米国同時多発テロ事件が起きた日には、取材場所として、ワールド・トレードセンターを打診されていた。 「考えてみたら、こうした事故で命を落とされた約1万人の犠牲者の代わりに生かされているんだなと。その人たちの分まで生きなければ……。そう思ってこれまで生きてきたのです」 (文中敬称略・年齢は本誌掲載当時のものです) *** (2)では、搭乗を回避していた2人の著名人の体験を紹介する。
西所正道(にしどころ・まさみち) 昭和36年、奈良県生まれ。著書に『五輪の十字架』『「上海東亜同文書院」風雲録』『そのツラさは、病気です』、近著に『絵描き 中島潔 地獄絵一〇〇〇日』がある。 デイリー新潮編集部
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