北口榛花は世界を目指すために日本大に進学 大学2~3年時の伸び悩みをライバルや恩師はどう見ていたか
【周りが「声もかけづらかった」という大学3年時】 大学2年時は記録的に見ても60m台を2試合で投げ、客観的には低迷とは言えなかった。しかし大学3年時(18年)6月の日本選手権は、最悪とも言える結果だった。49m58で12位。斉藤の優勝記録は60m79だったので、気象条件が悪かったわけではない。 松橋氏は「心の問題。自分の不安との戦いだったと思う」という見方をしている。 「男子は指導者がいなくても平気な選手が多いけど、女子はいないと不安になる。実際、ちょっと何か歯車が狂った時、しっかり見てくれる指導者がいれば、修正してもらえることもある」 2年時のユニバーシアード前後は、松橋氏がその役割を果たした。3年時は何人かのやり投指導者とコンタクトしたが、北口にピンとくるものがないことが多く、師弟関係が成立しなかった。その頃から、自身の投てきにプラスとなる指導者を見つけたい気持ちが強かったのだろう。 日本選手権前には食事がとれなくなり、体重が5キロも激減した。当時の北口が悩んでいた様子は、ライバルの山下にもわかるほどだった。 「ヒジにサポーターを巻いていることもありましたし、調子が悪いんだ、と誰もが感じていたと思います。基本的にフレンドリーで話しかけやすい選手ですが、その頃は声もかけづらかったですね」 9月の日本インカレは60m48で、前年に続いて優勝した。山下が指摘したように技術的な部分で、手応えを感じられていたのかもしれないが、精神面が日本選手権の頃より落ち着いていたのは間違いない。一番辛かった3年時のシーズン前半を終え、シーズン後半には2~3年時に記録を伸ばせなかったことを、冷静に分析することができていた。
【指導者に頼らないアスリートに】 大学2~3年時の低迷を反省し、北口は3年のシーズン後にふたつのことに取り組んだ。 ひとつは下半身のトレーニングに、それまで以上に力を入れること、そして自分に合った指導者を探すことだ。 オフに入ると北口は、混成ブロックで練習を始めた。選手は男子ばかりである。1、2年時にも日大コーチ陣から提案されていたが、北口自身が「逃げ回っていた」。北口にとっては脚の動きをスムーズに行なう目的で、「20種目くらい」をサーキット形式で行なうトレーニングなどを行ない始めた。 「自分の(武器である)振り切りに頼ると限界がある。上半身だけでなく、下半身も使えるようにしたい」(北口) 山下が感じたように、北口はその部分を試行錯誤していた。だがそのための下半身のトレーニングは、そこまで積極的に行なわなかった。北口自身は「笑ってごまかせなくなった」と冗談を交えて説明したが、2シーズン記録が伸びなかったことで、そこに取り組む覚悟を固められた。 指導者探しは、運命的な出会いがあった。現在もコーチを務めるチェコ人のデイビッド・セケラック氏と、11月に交流することができた。出会いについては次回連載で詳述するが、北口は指導者との関係性について松橋氏と話していたことがあるという。 「北口は毎日見てくれるコーチがいなくても、ちゃんとやらなければいけない、ということをまず決めたのだと思う。大学2年、3年とうまくいかないことが続き、自立することが大前提だという考えをまず持ったと思います。それでもひとりでやっていくのでは難しい部分があると判断し、世界トップクラスの技術やトレーニングなどの部分をチェコのコーチに頼る形で行ったのでしょう」 大学3年のシーズン後、いよいよ、北口が自立したアスリートなって世界へのステップを上がり始める。 つづく
寺田辰郎●取材・文 text by Terada Tatsuo