なぜ人類だけが「演じる」ことができるのか…他の霊長類と私たちを分ける「驚きの能力」
人類は進化の過程で共感力を獲得し、言語を発達させてきた。そのなかで生まれたのが歌やダンス、演劇だった。そうして演劇は人と人とを繋ぐ芸術となっていった。戦争が止まらないこの時代にこそ私たちもう一度立ち止り、人類の来し方に思いを馳せたい。群像にて連載中の『ことばと演劇』では、劇作家の平田オリザが演劇の起源に迫っている。 【画像】なぜ人類は「近親相姦」を固く禁じているのか ※本記事は群像2025年2月号に掲載中の新連載『ことばと演劇』より抜粋したものです。
身近なものを「見立て」てみる
初等教育で行う演劇の授業の一つに「見立て」というカリキュラムがある。教室や体育館で、身近にあるものを何かに見立てて子どもたちが様々に演技をする。その場の身近なものを「見立てる」こともあれば、教員があらかじめ用意した遊具などを使って授業を進める場合も多い。 昨夏、私が見せていただいた公開授業は小学校四年生が対象で、あらかじめ教員がウレタンで出来た棒や円盤状のもの、小さな三角錐(コーン)など安全な遊具を用意し、それを何かに見立てて、四、五人の班ごとに寸劇(三十秒から一分程度のもの)を作るという構成だった。 私立の小学校で、日頃から「演劇」の授業があり、児童たちも慣れているようで楽しみながら様々な「見立て」を行っていた。ただもちろん、まだ四年生だからウレタンの棒を振り回して隣の子を叩いてふざけてしまうといった光景も見られた。 授業後の振り返りの研修会では、何人かの教師がこの点について言及した。「棒を持つと子どもたちはすぐに人をぶってしまうので、棒は用意しない方がよかったのではないか」という意見もあれば、「小学四年生ならば、あれくらいは仕方がない。安全性は確保されていたし」という先生もいた。 この日は午後から私が教員対象のワークショップと講演をすることになっていて特別ゲストという扱いだったので、午前中の公開授業の振り返りでも最後に総括を述べることになった。 私はウレタン棒の是非について「棒で人をぶつのは見立てではない/見立てにはなっていない」と最初に伝えておけばよかったのではないかと申し上げた。実際、この授業の冒頭で担任の先生は、手近にあった傘を持って「傘を傘として使うのは見立てではありません。何か他のものに見立てて面白いお芝居を作ってください」と指導していた。 さて、私のライフワークの一つは、日本における演劇教育の普及・推進なのだが、演劇を授業に取り入れるなどと言うといまだに、「子どもたちに噓をつけと教えるのか」と言いがかりのような非難を受けることがある。この点について、最近、私は以下のような文章を書いた。