なぜ人類だけが「演じる」ことができるのか…他の霊長類と私たちを分ける「驚きの能力」
共感がなければ成立しない授業
****************** 私はそんなときよく、財布から一枚の紙幣を取り出し「これは何ですか?」と逆に問いかける。質問者は怪訝な顔で「お札です」と言う。私は続けて「でも本当は何ですか?」と問いかける。答えは必ず「……紙です」となる。 「これをお札と呼び、このただの紙切れに価値を与えるのは噓ではないんですか? 噓と言って失礼なら虚構と呼んでもいいのですが」 「虚構を共有する」この能力のことを、『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリは「認知革命」と呼んだ。数万年前、ホモ・サピエンスは自分の主観だけではなく、他人も同じものを認識していると感じる能力を持つに至った。この「虚構を共有する力」によって、私たちは形のないものを信じることが出来るようになった。貨幣も、企業も、国家も、そして神も。(暉峻淑子『サンタクロースを探し求めて』岩波現代文庫 解説より) ****************** 話を「ウレタン棒」に戻そう。そこら辺に落ちている木の枝で他者を叩くことは、おそらくゴリラやチンパンジーといった類人猿なら皆出来る。もちろん原人もネアンデルタール人も出来ただろう。あるいは叩くだけではなく、叩く真似をして遊ぶくらいのことまでは出来たかもしれない。実際、チンパンジーの子どもは、木の枝を赤ん坊に見立てて遊ぶ行為をするそうなので、「見立て」の初期段階までは類人猿でも可能だ。しかし、その木の枝を他のものに見立てて、何かを演じることはホモ・サピエンス=私たち人類にしか出来ない。 棒(のような形状のもの)を持ったら隣の人を叩きたくなるのは霊長類の本能だ。 ウレタン棒をゴルフのクラブに見立てる、野球のバットに見立てる、二本を両手に持ってスキーのストックに見立てる。そこに、それに附随した動作を加えたときに、その行為を観ている他者にも、同じような「見立て」が起こる。これが演劇教育における「見立て」の意図だ。他者の共感がなければ、この見立ての授業は成立しない。 つづく
平田 オリザ