【コラム】熱情と行動のラグビーマン逝く。BL東京開幕戦で、ブレイブルーヴ育ての親・難波良紀GMの追悼イベント
12月9日(土)、リーグワン開幕日のブレイブルーパスのホストゲーム会場で、女子チーム ブレイブルーヴのGMを務めた難波良紀氏の追悼イベントがおこなわれる。 故 難波氏は2016年に創立された女子チーム ブレイブルーヴを、立ち上げから支えたラグビーマンだ。享年56。脳腫瘍で2度の手術に挑んだが、11月8日に自宅で逝去した。 情熱と行動の人。2000年に起業し、自ら社長を務めたデータバンク株式会社がルーヴの活動を支えてきた。マネジメント全般から経済的な工面も厭わず、女子選手たちの育成と強化に長く、熱く携わった。 山形は鶴岡工業高校でラグビーを始め、その後は草ラグビーでもLO、NO8としてプレー。息子・諒平さんが小学校1年で府中ラグビースクール(現ブレイブルーパスジュニア)に加わったのをきっかけに、スクールの保護者として育成会の代表も務めた。献身的な動きに目を引かれたのが、当時スクールの監督だった吉田峰生さん、現在、ルーヴの代表を務める仕掛け人だ。 吉田さんが、当時、同じく保護者だった松田努さん(元東芝、日本代表FB)と難波さんに声をかけ、女子チームの種ができた。吉田さんは、当時スクールで増え始めていた女子の受け皿の必要性を感じていた。松田さん、難波さんとともに府中で始めたのが「松田塾」と銘打った女子練習会。 「どんな環境の子にもラグビーの楽しさを」 その意義に共感した難波さんの長い疾走が、そこから始まった。 初速を生んだ共感は難波さんの揺らがぬ信念になった。女子ラグビーは当時、今よりももっとプレーの場が限られていた。特に、男女一緒にプレーできる中学のスクールを卒業して以降の活動の場がない。一方で、のちに教室からチームとなり設立されたブレイブルーヴは、初心者が多いのも特徴だった。 選手がいちばん大切。誰でもプレーができる場をという趣旨から外れることには、NOの姿勢を通した。難波さんを世話役につけた、いわばリーダーの吉田さんに対しても、いつも意見をはっきり示す人だった。同志としての信頼感を土台に、それぞれの役どころに力を尽くしてきた。 「女子ラグビーのため、ルーヴのために馬車馬のように動いていた」(吉田さん) 難波さんと同年代の松田さんもまた、松田塾以来変わらずチームを率いる看板監督にして、奉仕の人だ。本人は口にしないが一貫してボランティアで指揮を執り続ける。いわば戦友の踏ん張りに、兄貴分の難波さんの情熱はより燃えた。 2016年、ブレイブルーヴが発足。3人の取り組みが正式にチームになった。難波さんはGMとして「教えること以外は全部やっていた」(松田さん)という。 「事務的なことから現場のサポート、選手の勧誘まで全部です。それでいて表には出ない」(松田さん)