【コラム】熱情と行動のラグビーマン逝く。BL東京開幕戦で、ブレイブルーヴ育ての親・難波良紀GMの追悼イベント
周囲の支援、応援も実り、初めは年代関係なく集まっていた女子、女性たちも、今はシニア、ユース、ジュニアに分かれて活動する体制になった。総勢約50人。各カテゴリーが、それぞれの目標に向かってプレーしている。 トップチームのシニアは2022年に初めて、創立以来目標としていた太陽生命カップセブンズシリーズにゲスト出場した。2023にはコアチーム入りを果たした。それはとりも直さず松田監督と難波GMの悲願だった(2023年6月の入替戦では勝ち残ることができず、来季は再びコアチーム入りにチャレンジする)。 地域連携を進める東芝ブレイブルーパスの薫田真広GMは、2022年末に初めて難波さんと向き合い話した。ほぼ初対面だったやりとりから、ただならぬ熱を感じたという。 「自分はラグビーにすべてを捧げる、と言葉にしていた。チームの監督であるジョン(松田)を、男にする、そんな気概もあった」(薫田GM)
2022年の初参戦にチームが沸いた頃、実は難波さんの体に異変が起きた時期と前後していた。 息子・諒平さん(25歳)は2月初めに父の手のけいれんを知った。原因を求めて病院を巡った末、脳ドックで脳腫瘍が見つかり3月初めに入院、半ばに手術。これが1回目の開頭となった。運動機能回復のリハビリに励んだ父は5月末に退院。歩くことから始める厳しい訓練だった。 「手術は受けましたが、5年以内に亡くなる人が20%いる病気、と本人も聞かされていました。手術前から、その後の心構え、覚悟はしていたはずです」(諒平さん) 2023年初夏、ルーヴの現場やバックヤードに足を運び、チーム関係者の参加するイベントなどにも顔を出した。体調を考えれば信じがたい行動の量。しかし7月初旬、北海道で開催された大学セブンズに同行した会場では、松田監督に違ったトーンで伝えてきた。 「もう俺は厳しいかもしれない。選手たちに一言、伝えてもいいかな」。激励か、お別れだったのか。GMが一人円陣に加わった。松田監督はその言葉を聞かなかった。 7月中旬に再び激しい異変。8月初旬に二度目の手術をした。 「1回目の術後とはまったく状態が違いました。動くことができませんでした」(諒平さん) 体の痛みがひどかった。諒平さんが支えてやっと歩くことができる状態から、1か月はなんとかリハビリに立ち向かった。しかし、状態はむしろ落ち込んでいく。難波さんは自宅での療養を選んだ。ラグビー界がフランスワールドカップに熱狂した秋のことだ。 「動く右手でも、携帯を触るのも厳しくなりました」(諒平さん) 11月8日、難波良紀さんは永眠した。 今思えば、1回目の手術後の父の動きは猛烈だった。会社のこと、ルーヴのこと。 「以前のような体力はないのに、いつも電話かオンライン会議で誰かと話していた。焦っているなと感じました」 まだ1回目の手術の後の時期、諒平さんは、15人制日本代表の選考会にルーヴの選手が出るからと、半ば強引にグラウンドに連れて行かれたことがある。 「すごいよな、ってしきりに言っていました。うれしそうで」 すごいなあ、と息子が思ったのは父に対してだった。諒平さんも高校までLO、FLとしてプレーしたラグビーマンだ。それでも、競技への愛情は父にかなわないと、行動し続けた面影を振り返る。 「どうしてここまで、のめり込めるのかな。率直にそう思っていました」 ルーヴから、今年開催された新国際大会「WXV2」に参加した日本代表には、安藤菜緒、安尾琴乃の2名が出場している。 「意地っぱりだから、苦しいことは顔に出さない」 それよりも、放って置けないことや、人の喜ぶ姿に反応して、また動く。父の足跡は、大好きだった競技を体現している。 ルーヴで現在も代表を務める吉田さんは「彼の府中での行動は、奥様の理佐子さんら家族の支えあってこそ」と、家族の理解と長年のサポートに触れる。重ねたアクションはチームとして残り、彼が愛した空気はグラウンドの選手たちの呼吸に引き継がれている。 「クラブチームは、学校の部活とは少し違うんだ」 いつか、なかなか練習に来られない仲間にいらだつ選手を諭していたことがある。歩む道のりも乗り物も違うもの同士が互いをリスペクトする。多様な苗を受け入れる土壌は肥えるのに時間もかかった。ブレイブルーヴが本当に花開くのは、もっと先なのかもしれない。 難波さんは、今ある府中の土を作った一人だ。支えられ、多くの人を支えたラグビーマンはなおここにいる。 (文:成見宏樹)