<メディアは生活保護をどう報じてきたか>「利用者」と「公務員」“悪”の対象に揺れた20年間
「福祉事務所バッシング」と面接時対応
「ワーキングプア」が放映された同じ年、06年11月には、生活保護の運用に大きな影響を与えた番組が放映される。報道ステーションが制作した「弱者切り捨ての格差拡大“ヤミの北九州方式”とは」である。 番組では、各都市で生活保護の利用世帯が増えるなか、北九州市だけが横ばいの状態であることを問題視。これを支えているのが申請件数を押さえるための目標数値(ノルマ)の存在であるとした。 番組では、弁護士などの有志が開いた相談会において、申請書さえもらえずに追い返されたという女性の姿が映し出された。同時期、北九州市では生活保護の申請に至らず、あるいは生活保護を辞退した直後に孤独死(一部報道では“餓死”とも)した市民が相次いでいた。 事態を重くみた厚生労働省は、「生活保護は申請に基づき開始することを原則としており、保護の相談に当たっては、相談者の申請権を侵害しないことはもとより、申請権を侵害していると疑われるような行為も現に慎むこと」というルールを明文化するなどの対応に追われることになる(一連の経緯は、拙著『生活保護vsワーキングプア 若者に広がる貧困』に詳しい)。
「貧困の再発見」の時代
この時期の生活保護の動向を確認しておこう。 生活保護の利用者は1950年の制度発足以降、一貫して減少傾向にあった。これが増加に転じたのが、バブル崩壊直後の98年である(図2)。 それまでは、生活保護の報道はごく散発的にあるだけで、社会から注目を集めることは稀であった。福祉分野の研究も2000年の介護保険制度などの契約サービスへの転換(福祉基礎構造改革)に注目が集まり、生活保護や貧困問題の研究者は、比較的、珍しい存在だった。 しかし、生活保護の利用者が目に見えて増えていくなかで、「経済的に追い詰められる隣人」の存在が認知され、メディアもその流れに呼応した動きをみせた。筆者も所属する「貧困研究会」が設立されたのも07年のことである。 やがて、「ワーキングプア」「ネットカフェ難民」、そして「子どもの貧困」などのキーワードが生まれ、新聞、テレビ、雑誌を問わず、生活に困難を抱える人たちの実態を繰り返し取りあげるようになった。 当時、筆者はウェブサイト「生活保護110番」を運営し、生活に不安を感じる人たちが匿名で気軽に相談できるコミュニティの運営をしていた。報道各社から「利用者の生の声を聞きたい」という依頼が、途切れることなく続いた。 「生活保護」を含む記事の2つの山のうち、第1の(そして最も高い)山は、09年である。08年のリーマン・ショックの影響は日本にも及び、「派遣切り」とも呼ばれる製造業などで雇止めが相次いだ。大量の失業者の救済をどうするかは、同年末から翌09年正月にかけての「年越し派遣村」でメディアのなかでも中心的な話題として取り上げられるようになる。 豊かであるとされてきた日本に、貧困が静かに広がりつつある。そのことが、誰の目にも明らかになった。それが、「貧困の再発見」の時代である。
大山典宏